平成三十六年の "夜の騎行" < ワイルドハント >

終章





 リヤカーの上は満員御礼だった。
 前列のリヤカーには狼姿のまま梅ノ木と空閑に加えて市瀬と夏野が、後列のリヤカーには牧本、スズメ、後小路、星見夜少年が座る。津田は弾き出された形で、引き続きシカに騎乗したまま、リヤカーに並走している。
 牡鹿による蹴撃の影響を引きずる梅ノ木は、空閑の黒い毛皮に埋もれるようにして丸くなっていた。空閑は狼の顔であっても分かる、ごく穏やかな顔で寄り添う幼狼を見下ろしている。時折熱を分けるような優しさで幼狼の背中を舐めてやる様子が甲斐甲斐しかった。
 後小路がリヤカーの各自を見渡し、ふむ、と頷いた。こういう時に場を締める梅ノ木がダウンしているので、尾崎はひきつづき御者の仕事があるので除外として、どうやらまとめ役を買って出たようだった。その様子に、"霊能者"のカードを抱きしめていたあの時の面影は微塵も残っておらず、まるであのひと時が束の間の幻影であったような快活さで、彼女は口を開く。
「今回のお盆作業はこれで終わりでーすっ。皆さんお疲れ様でした! というわけで、これからはぼくたちのホンジツ最後の任務! 星見夜くんのお届けでーす!」
「宅配便みたいですね」
 牧本の言葉にも後小路はぽかぽかした笑みを浮かべたままで、
「お家まで送り届けるわけだからねっ、ちょっと近いとこあると思うっ。だいじょぶだよねザッキーさん!」
「星見夜神社なァ……まあ、あの辺りなら降ろせんわけじゃねーから自宅まで送っては行ける、な」
 先に確認してから話をまとめろよ、と尾崎が返せば、ひひっ失敗失敗、と後小路は肩をすくめる。
 星見夜少年は、その声を心地よく聞いていた。夜は知らず更けており、星見夜少年には静かに睡魔が忍び寄っていた。
 リヤカーのタイヤが回る音、少年少女体の会話を枕に、星見夜少年はいつしかうつらうつらと眠り込んでいる。
 だから、以降の会話は全て夢うつつに聞いたような、そうでもなかったようなおぼろげなものとなった。
 ふと顔に影がかかったような気がした。誰かが顔を覗き込んだようだった。
「あれっ星見夜くん寝ちゃってるよっ、どうするー?」
「夏場なのだし、家の前に寝かせておけば大丈夫じゃないか?」
「野外で寝てもまあ。って季節ですけど。風邪ひいたらかわいそです」
「そんなに過保護にしなくてもいいと思うけれどね。男子だよ」
「外は外です」
「チュン子ちゃん、顔っ! 顔落ち着いてっ! スマイルスマイル優しい顔―っ!」
「あー。……まあ、家の方に声かけておいてやれればいいんだが、ちと入りにくいんだよなァあの家」
「虫でも入れさせてくれないんだよねえ。今攻略考えてるんだけど、難しくてさー」
「すみません、やっぱりうちはそういう家なので……その手の作法も守ってるんですよね。それから夏野さん、うちの家はアトラクションじゃないので」
「ダメ?」
「ダメです」
「ん……」
「あれ、起きたん梅ノ木ィ。寝てた方がよくね?」
「……丁度いいとこにあいつが帰ってきてる。呼ぶわ」
「いいの?」
「……――ん」



「――……、」
 虫の声が聞こえた。
 鼻先に草の匂い、夏の熱気を宿した空気が触れる。
 体が少し揺れている。
 おのれの肩が叩かれているためだと気づくのに、少しばかりの時間がかかる。
「――大丈夫ですか」
 柔らかな女性の声が聞こえた。 
 星見夜少年は何度か瞬きをした。ここに至るまでの記憶がどうも抜け落ちている。
「あ。気付いたのね。気分は大丈夫? 名前は言える?」
 柑橘の気配を随伴した、控えめなグリーンノートがほどけるように鼻先を流れた。夏の熱気に儚げな、それでいて穏やかな、花を付けた植物の生命感があった。
 その香りにふっと意識が明晰になる。凛とした中にもあまやかな一瞬の香気が、少年をどこか気恥ずかしくさせた。
 夜と街灯の光を背中に置き、一人の女性が星見夜少年の顔を覗き込んでいた。背後には小ぶりのスーツケースを佇ませている。年齢はまだ若い、だが星見夜少年から見れば大人と言う他ない、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「すみません、……ここは」
「星見夜神社の前よ。貴方ここで倒れていたの。起きないようなら人を呼んだり救急通報しなきゃ、と思ったのだけど。」
 なんだか今日はこんなことばかりのような気がする。
 周りを見渡しても、今となってはすでにあの子どもたちの気配も、リヤカーも何もかもは過ぎ去った後で、彼がともに過ごした僅かな時間も、真夏の夜の夢めいていた。
「ここ、僕の家の前です。山から……その、戻ってきて、ちょっと座り込んでいたらうとうとしてしまったみたいで」
 星見夜少年は、少しはぐらかす。彼の記憶の通りのことを話すわけにはいかない。
 女性は完全に納得したようでもなかったが、ゆっくりと頷き、
「そう。それならいいのだけど。気を付けた方がいいわ」
「ありがとうございます。あの、お世話になったみたいですから、お名前を伺ってもいいですか。家族も気にするので」
 女性は少し目を見開くようにすると、緩やかに首を振った。
「名前……名前かあ。それはちょっと秘密にさせてもらえないかな。ほら、私は何もしてないでしょう? それに、……多分、貴方のご家族は、まだ私の名前を聞きたくはないと思うから」
 だからお願いね、と目を覗き込まれると、釣りこまれるように頷きたくなる。どことなく演劇的な振る舞いだったが、
 星見夜少年は言葉を出せぬまま頷く。
 女性は目尻をしならせた。そうやって目を細めてみせると、彼女には意外なほど少女めいた柔らかさが覗いた。
「私、この街の出なのだけど、九年ぶりかな、本当に久し振りに帰ってきたところなの。何となく懐かしくなって……魔が差したのね。こちらを通ったんだけど。星見夜さんちの子に会うとは思わなかったわ」
 彼女の視線は星見夜少年を外れ、星見夜神社の石段を辿っていた。
 古い街灯の白んだ光が女性の顔に陰影を生んだ。目許の陰に、物憂げというにはどこか痛切なものが沈んでいた。
 彼女の目は現在を見ていない。九年か、それとももっと遥か昔か、そこにいたのであろう誰かを、あるいは誰かたちを追う眼差しだった。
 言葉も掛けがたい透明な悲しみがあった。
 年月のうちに痛みやその他行くあてのない感情が濾過されたような、雪解け水のような悼みだと、星見夜少年の目には映った。
 階段にじゃんけんの掛け声を響かせて登り競う子どもたち、夏祭りに浴衣姿で訪れる年頃の少年少女、夏の日差し除けに鎮守の森で涼む学生服姿、自転車を引き他愛もないことを喋りながら往来する高校生。折々の祭りで、新年の祝いで、拝殿の前で手を合わせ、祈願や誓いを行う人々。振る舞い甘酒や餅つき、餅投げを目当てに訪れる人々。
 星見夜神社はこの町の地域社会で、それなりの親しみと生活への密着をもって受け入れられている。この神社を舞台とした一年の行事や、四季の中の取り立てて変わったことのない風景、その中に、この女性と彼女を取り巻く人々もいたのだろうと思われた。
 彼女はやがて一つ吐息をすると、過去に浸るものじゃないわね、と眉を下げるようにして笑った。その顔からは先ほどまで浮かんでいたものが拭われている。
 大人というものは、悲しまないのではなく、悲しみを仕舞い潜めるのが上手いのだと星見夜少年は忽然と悟った。
「いきなりこんなことを言って変なお姉さんだと思うかもしれないけど」
 別れ際、スーツケースを引いた彼女は、少しだけ言葉を迷わせた。
「どうぞ、元気でね」
 彼女の眼差しは、星見夜少年を通り抜け、過去の誰かを見ているようだった。



 星見夜少年は一人神社の石階段を昇る。
 思い返すのは今日の記憶、今となっては非現実的な空の旅であった。
 その中でも、とりわけ心に掛かるのは一人の少女の面影だった。
 星見夜少年は気付着始めていた。
 初めにスズメと梅ノ木と顔を合わせた時に感じた薄い違和感。
 それは、たとえばスカートのちょっとした長さであったり、スカーフの結び方であったり、靴下の折り目であったり、一つ一つは他愛もない。けれど、それが集合するなら、また違う像を結ぶ。
 九人の少年少女の言動。注意深く、だがそれでも隠し切れぬような端々の言葉。
 それらを全て結びつけ、現実感のないいくつかの出来事を通り抜けた後なら、合点するものもある。
 彼らは――彼女は決して、そんなことを言わなかったけれど。
 階段を昇り終え、鳥居の下をくぐった頃には、彼はある一つの納得を胸に落としていた。
 母屋へと向かう。ふと思いついて腕時計を見ると、時刻は八時半を示している。それは、家中が騒ぎになっていてもおかしくない時間で、どんな顔をして家に入るか、どんな言い訳を考えるか、そんな現実的な問題が頭をよぎった。だが、星見夜少年にはそれについて思考を巡らせる時間は与えられなかった。
 母親が裏口にもたれていた。顔には疲労がうっすらと張り付いている。おそらくは、ずっと前からそこで少年の帰宅を待っていたものと思われた。
 少年が何かを口にするより早く、母親はゆっくりと口を開いた。
「随分と遅かったわね、もう少しで捜索願を出すところだったのよ」
「……心配をかけてごめんなさい」
 謝罪の言葉はいつもより素直に口からこぼれた。
 それは、この家で秘されていたものを知ったからでもあり、母のこの時期へのこだわりの意味をなんとなく察したからでもあった。母の言う、「帰ってきているかもしれない」という言葉の本当の主体は、恐らく。
 母はそれ以上の咎めの言葉もなく、家に入りなさい、と促した。
 星見夜少年は素直に母屋に足を延ばす。母がふと主出したように尋ねた。
「誰と遊んでたの?」
 あの九人の顔、そして夜風が頬を撫でる感触、それが星見夜少年の脳裏に浮かぶ。
 星の散る空を行ったあの時間。白い髪の少女。
 星見夜少年は少しだけ考えた。
「ん………神様と、かな」
 なあにそれ、と母が眉をひそめる。
 冗談だよ、と言おうとした星見夜少年に、母は意外な言葉を続けた。
「また小さい頃みたいなことを言って」
「へ?」
「覚えてないかもねえ。アンタがもっと小さかった時、幼稚園くらいの頃? そういうことを言ってたのよ。イマジナリ―フレンドっていうのかな」
「……本当にいたのかもよ」
 馬鹿言ってないでさっさと行きなさい、と母が頭を小突いた。
 星見夜少年は一度だけ振り返った。
 境内の向こう、鳥居の彼方に、いて座にかかった月がこちらを見ていた。
 空に昇った月は色を失って青ざめている。
 それはあの少女の髪と同じ色をしていた。
 だから、星見夜少年は少しだけ笑う。
「おやすみ、おねえちゃん――ありがと」
 夏の夜風が柔らかに頬に吹いた。
 それは、少年が記憶すらしていない遠い昔、彼の頬を撫でた指先とよく似ていた。







初出: 2014/12/4「やるよ七月村アンソロジー」寄稿
執筆中BGM:
凛 「House set of "Imperishable Night" Eientewi set 01 ? 幻視の夜」
Kalafina「misterioso」
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