平成三十六年の
"夜の騎行"
第三章
"夜の騎行"
双耳峰の鞍を目指し、リヤカーは山の上空を進んでいた。ウサギたちは嶺からの吹き降ろす風を水切り石のように踏み渡り、リヤカーの走行は安定している。スズメを連れた津田がリヤカーと合流した時には、星見夜少年の、二度と頭が上がらなくなるのではないかという謝罪とスズメの「いいのよ無事だったのだから」というやりとりが何度も繰り返された。最終的に連鎖を断ち切ったのは、「結論が足踏みしてんだからそこまでにしとけ」という津田の言葉だった。
それを境に場が収まった頃、不意に牧本の傍らに一匹のギンヤンマが留まった。朝露めいた端麗な翅が震え、いかにもか細い六肢がリヤカーの荒れた表面を掴んでいる。地表からこの風吹く高天まで舞い上がってきたにしては、その翅に荒れや乱れはなく、いかにも清げだった。
小さな来訪者に一時視線を落とした牧本は、
「夏野サンちと遅かったですね」
珍しいな、と彼女は独り言ち、傍らに積んだ包みの結び目を解き始めた。風呂敷の中から、古びた重箱と割り箸の束が露わにされる。
彼女の行動の理由はすぐに明らかになった。
ほどなくして、脳天から抜けるようなあっけらかんとした声が、ギンヤンマの群れとともに現出したのである。
「つっかれたー! 補給大盛りくっださっいなー!」
明るい髪をした少年だった。温順な大型犬めいた風貌に、表情も舌もよく動くような、落ち着きのない快活さが宿っている。彼は無数のギンヤンマを己の身体の一部のように侍らせており、牧本の傍らに降りた先程の一匹は、一種の伝令であったのだろうと知れた。
草原から舞い上がってきたこの少年は、ギンヤンマの群れの上で胡坐をかいたまま、水浴びをした犬のように頭を振った。明るい髪に赤いヘアピンをさし直すと、
「牧本サン牧本サン! 確かお餅あったよね、私あれが食べたい」
リヤカーに並走しながら、少年――後小路が夏野というのだと小声で教えてくれた――は少女たちの傍らの重箱を指さしてねだる。もはや人外の所業以外の何物でもなかったが、星見夜少年はさすがに驚く気持ちも失せていた。ここはそういう場所で、彼らはそういうもので、今はそういう時間なのだ。その納得が、彼の胸の深いところを満たしていた。
「いきなりそんな重てーもんから食うのかよ……」
ウサギを御す尾崎が呆れるのにも、夏野はへらへらと笑うばかりで意に介した様子もなかった。無言の牧本から餅を受け取れば、晴れやかに笑った彼は早速手を付ける。餅はごく柔らかくよく伸びていて、素晴らしい速度でそれを腹に収めていく夏野は、いかにもそれが美味くてたまらないといった食べっぷりだった。昼食の後は行動食を少し口にしただけの星見夜少年には目を離しがたい魅惑がある。
だから、気が付いた時には星見夜少年は夏野と目が合っていた。彼はきょとんとした目をこちらに向けたまま咀嚼を続け、やがて餅を飲み込む。
「あ」
物欲しげな目をしてしまった、と居心地が悪くなる。星見夜がせめて誤魔化そうと口を開く直前、夏野は猫のように笑った。
「君も食べる? 確か、まだある筈だよ」
と重箱を示す。しまったな、という思いはあるものの、彼の言葉は確かに魅力的な誘惑だった。彼の手元で白い餅が柔らかく伸びる様子は、星見夜の腹にひたすら働きかけるものがあった。
是非とも、というようなことを口にしようとして、星見夜はにわかに立ち上った違和感に口を噤んだ。
沈黙が落ちていた。
シカの上の津田が目を細め、後小路は眉を詰めて笑みの気配の消えた視線で星見夜少年を見ている。牧本は地上から顔を上げ、表情の薄さを変えぬままで夏野に視線を据えていた。蔦の手綱をとったまま進行方向を注視しているような尾崎ですら、さりげなく背後を気にしている。そんな周囲を知ってか知らずか、夏野は薄目でへらりと笑ったままだった。
そんな緊張の中、ただ市瀬だけが無関心な様子で通信機に耳を傾けていた。虫の声すら地上に置き去りにした夜の中、彼女の手にする通信機から漏れ聞こえるノイズが夜空の静寂を乱している。
沈黙を終わらせたのは、大きなため息だった。
「夏野、お前な」
それは津田によるもので、
「さすがに遊び過ぎだ。星見夜、お前もやめとけ、悪いこと言わねえから」
「夏野サン。……ルールを知らせずに始めるのは、よくない」
津田に続いた牧本の視線を受けて夏野は肩をすくめた。そうだねえ、と頭を掻き、
「ちょっとからかってみたかったんだよね。ごめんね?」
彼の言葉は、なぜか津田ではなく、その腕の中に向けられているようだった。
その時、星見夜少年はようやく気付いた。
津田に隠されるようにしているスズメの表情、そしてその顔色に。
もとより色白のスズメの顔は、他の誰よりもこわばっているように見えて、硬く握りこんだ手が夜気の中で薄青かった。
津田が疲労感を隠さず眉をひそめる。
「お前は前科があるからな。冗談が冗談に聞こえねーんだって」
「前科だなんて、やだなー! 誰にでもやるわけないじゃーん! 私そんな軽い男じゃないよ!」
夏野の本心は最後の言葉にあるようだった。どうも、津田の言葉の真意は夏野に伝わっていないか、意図的に無視されているような気配があった。
「お前の言葉と今の質量、めっちゃ軽いけどな……お前も飲み物飲んだら?」
「あ、ほしーい!」
夏野と津田の間で気楽な会話が始まり、それにつられるようにして場の空気が緩んだ。牧本は再び地上に視線を落とし、後小路はそんな牧本の袖を引いて笑み顔で地上のどこかを指さし、市瀬は変わらず通信機と向き合っていた。
どうやら星見夜少年には意味の解らない、けれど重要なやりとりが終わったようだった。怪訝なうちにも、星見夜少年には何となく事の次第が飲み込め始めていた。己の空腹をなだめるため、彼は密かにリュックから飴玉を取り出し、口の中に転がしておく。
スズメをリヤカーに移乗させた後、始まったのは津田と夏野、二人の少年の食事であった。彼らの食欲は凄まじく――話を聞けば、彼らは町中からあの黒いもやを追い立ててきた勢子だという――鯨飲馬食という言葉も褪せるほどの飲み食いを果たしていった。
それぞれ健啖に食事を摂り飲み物を摂りする二人であったが、夏野はまた格別だった。がつがつとした様子でもなく、食器音も殆ど立てぬくせに、手品めいた勢いで食料が消えていく。餅が失せ、握り飯が消え、出汁巻き卵が削られる。薄切りの漬物が鍵盤を踏むようについばまれ、山を開発するのと同じ工程でなますが失せて、タコやカニを模したソーセージは乱獲の末絶滅し、肉巻アスパラガスが一つまた一つ消え、重箱どもが夢の跡、そして何もいなくなった。
津田も決して食が細いというわけではない。彼もまた、いかにも食べ盛りの健啖を見せていたが、どうも夏野は絶対量が違うようなところがあった。
津田と夏野は飲食を終えると、リヤカーから離れて山野へと下って行く。彼らの狩りは、まだ終わってはいないのだ。
一方山中、森の庇<ひさし>の元で、キツネと狼の狩りはたけなわだった。
ササの茂みの下をかいくぐり、夜よりもなお暗い体をしたノウサギがジグザグに走る。それを追うのは黒狼だった。掻き分ける際にササが身を打つのも構わず、
彼は常にノウサギの路選びを牽制するように身捌きする。背後の狼から決定的な一撃を受けないようにノウサギがジグザグに方向転換することまでは許容しても、彼の脅威から完全に逃げ去ることは許さない。
黒狼のその戦略は、すぐに実証された。
黒狼の目の前で方向転換したウサギ、その進路方向へ、タイミングを合わせた幼狼が飛び出したのである。
狙いが甘かったのか、幼狼の顎が捕らえたのはウサギの腿だった。それだけでは致命となりえぬ傷に、狂ったように闇の凝ったウサギは足をばたつかせる。顎をそらすようにして身を守りつつも、幼狼はその顎を緩めなかった。幼狼はしばらく思案していたようだったが、不意に、顎で振り回すようにして近くの岩にウサギを叩きつけ始めた。それは、暴れるウサギに癇癪を起こしたようでもあり、人間めいた智恵の結果のようでもあった。岩の角を選んで叩きつけられたウサギは、やがてぞっとするような痙攣を身に引き起こし、動かなくなった。
幼狼は、注意深くウサギから牙を抜き、深く息をついた。必死になるあまり、呼吸でも忘れていたような顔だった。息を入れた彼は、絶命を確かめるように濡れた鼻先で伏したウサギの首筋を押す。
すると、ウサギの体が奇妙にほどけた。
黒いウサギの輪郭は果実の皮を剥くように開き、地面へと影として落ち失せた。開いた獣の体の中からは蛍火めいた燐光が立ったかと思えば梢へと昇り、じきに見えなくなる。
黒狼はその一連を満足げに見ている。
彼の眼差しに気づいた幼狼は、はっとしたように耳を立てると、彼に向かって前脚を折り、誇らしげに一吠えした。かぼそく稚<いとけな>い尻尾が大きく揺れるのに、いかにも子供めいた甘えがあった。
黒狼は幼狼に歩み寄ると、その口元を穏やかに舐めてやる。幼狼はくすぐったげに顎を上げ、目を細めると、その口元が嬉しげに緩んだ。
そんなやり方で幼狼が望むように褒めてやると、黒狼は鼻先を風上に向けた。彼の視線の動きは次の狩りを促すもので、幼狼は素直にそれに従って顔を引き締めた。二頭の狼は次なる獲物を求めて夜を往く。
黒く凝ったノウサギを狩るのは彼らだけではない。キツネの一群れもまた、彼らと同じように森に入っていた。
岩の影、木々の影、あるいは下生えの茂みの中から、ノウサギを待ち伏せていたようにキツネが躍り現れ、彼らの首の最も弱い部分を噛み砕く。草原において、巧みなネズミ狩りを示した彼らは、森に場を移し、また獲物も姿を転じた今、その狩猟方法を転換している。予め彼らは夜の中のさらなる影に忍び潜み、油断して走り抜けようとしたノウサギのごく近くから立ち現れ、一気に牙を剥くのだった。今もまた、灌木の影から幽霊のようにキツネが飛び出し、俊敏な顎がノウサギの首を噛んで捕らえる。キツネの口から吊り下げられたノウサギは、その骨を砕かれて絶命する。狼たちと手法は違えども、彼らもかように巧みな狩人であった。
こうしてウサギを追い詰める肉食の獣たち、その狩猟場は、決して自然に構築されたものではなかった。そもそも狩猟者の数は決して多くはない。仕込みもなくウサギが散り散りに逃げるのならば、網目漏らさず捕らえるというわけにはいかない。
そんなヒトならぬ姿をした狩人たちのための舞台を仕立てた者、それもまた人ならぬものであった。狼の追跡とキツネの闇討ちのさらに外縁では、夜闇が彼らのために働いていたのだった。
夜よりもなお濃く、森の底に落ちるものを影という。常ならばごく傍らに佇むそれは、見るものに存在を気付かせぬ自然さで、役者たちのための舞台を整える。
例えば、それは思いがけぬ位置にある石である。
例えば、それは見えない場所に伸びていた、太く鋭い灌木の棘である。
例えば、それは足元に絡む位置でのたくる根である。
そういった障害は全て、ウサギが逃げる方向に、ごく以前から底にあったのだというようなさりげなさで立ち現れ、獲物を狼とキツネの狩猟場へと囲い込むのだった。結果としてウサギたちはひたすらに前進を強要されることとなり、捕食者たちの顎の前に数を減らしてゆく。狩人たちの視座において、狩猟は極めて順調であり、ウサギの次なる転身も間近であろうと知れた。
今宵、人ならぬものどもの夜の騎行<ワイルドハント>、山野の住人達はもはや等しく息を潜め、その決着を固唾を飲んで見守っている。
津田は美雪ヶ原に向けてシカを走らせていた。夏野はすでにその全身をギンヤンマのうちに溶かしており、津田の傍らに一群を残したまま、その大多数を先行させている。
夏のたびにこの"狩り"へ駆り出されることになって、決して少なからぬ年月が巡っているが、我が事ながら未だに現実感がない。
津田は死者である。
梅ノ木、尾崎、夏野、空閑、後小路、牧本、市瀬、そして、今名を挙げるならばスズメと呼ぶべき少女、彼らもまた死者である。
死してなお現世と紙一重の場所をさまよう彼ら九人は、かつて呪いめいた"ゲーム"と、その影響によって命を落とした。梅ノ木と空閑は"ゲーム"以前から人喰いの性<さが>を宿していたし、津田や尾崎、夏野は"ゲーム"によって役割を与えられた人間だった。死後、ぼつぼつと合流した彼らは、人の世界から一枚隔てたような場所で、永遠に変わらぬ日々をすごすように思われたのだが。
思い返してみれば、変化は夏野から始まったのかもしれなかった。はぐれた羊を群れに引き戻すように夏野が牧本を"こちら側"に連れてきた後、夏野は時たまギンヤンマに姿を変えるようになった。やがて空閑と梅ノ木は満月のたびに狼の性<さが>を抑えきれぬように、獣に変じては山を駆けるようになり、津田の視界にもこの世の淀みめいたものが映るようになった。尾崎は尾崎で何らかの変化があったようだが、彼はその点については何も語らない。これについて、空閑などは、例の物憂げに思考に沈んだ眼差しで「"ゲーム"の役職札が関係しているのかもね」などと言っていたが、当然、それに対して確証のある話をできるものは誰もいなかった。
その後、死後に得た異能のさらなる変化があり、人ならぬ者たちとの遭遇があり、いくつかの騒動を経た最終的な帰結として、年に一度、町の淀みを集めて山に追い上げては祓うという儀礼に参加するのが九人の死者の定例となった。生前はごく普通の男子高校生であり、オカルトとも宗教知識ともさして親しくなかった津田からすれば、お盆とは墓参りと家族の長期休暇の時期という程度の認識だったのだが。それが今では、友人の変じた狼やトンボとともにこんな風に夜を駆け、山狩りをする時期になってしまったわけで、なかなか急角度の転回である。
(嫌ってわけじゃねーにしても、何が常識か分からなくなるよなァ)
そんなことを思い浮かべていた津田の知覚の中で、朧に引っかかるものがあった。
一気に気が引き締まった。
予感に促されるままに森の彼方を見はるかす。
それが津田の視力のうちに捕らえられるまでに、しばらくの時間を要した。森の中、シカの俊足は損なわれず、大地に後を残すこともなく走る。
やがて、先をゆく幾つかの影を津田は視認した。
先頭を行く二つの影、それは四足にしてずんぐりとした体をしており、寸胴で丸みを帯びた、いかにも頑丈な輪郭に、はち切れそうな筋肉の躍動があった。
イノシシである。
彼らを追う黒狼と幼狼の姿もやがて津田は確認する。彼らは若干体格の劣る方のイノシシを獲物と選んでいるようで、腹や足を狙って散発的な攻撃を繰り返しているようだった。大型の獣に対しては、じっくりと多発的な攻撃を繰り返して削ってゆき、その果てに膝をつかせるのが狼の狩猟だ。本来はもっと頭数のいる群れでこそ有効な戦い方ではあったが、二頭はそれでもよくやっている。
動き回る狼たちを視認して、津田は少々心を落ち着かせた。
見たところ彼らに怪我はない。狼の姿を顕した二人の恐ろしさを津田は身をもって味わったことがあるし、彼らのしたたかさも理性の上で把握している。だが、友人たちに怪我がなくて安堵するのは、それとは別枠の感情の働きだ。
周囲を見渡したところで、他に追随する獣はなかった。狼たちに比べて小柄なキツネでは、イノシシに対抗することは難しい。彼らの役目はウサギ狩りまでと事前に打ち合わせていた通り、彼らは撤退したものと見えた。
イノシシと狼の追走は続く。狼達に執拗に狙われたイノシシには、若干足に遅れが出始めている。狼の攻撃に仮借はなく、彼らはイノシシの最期となる隙を伺い始める。
行方が薄明るくなってきた。間もなく森が切れる。
木々の影の元からイノシシが躍り出る。
月光落ちる平原、山頂の社への参道として人の足で均らされたここは美雪ヶ原、今夜のラストスパートはここからが本番である。
盂蘭盆の夜は満月、魔性も死者も等しく月の元に影を落とす。
ギンヤンマの編隊がイノシシの目に鼻に耳に取りつき、苛んでいた。
彼らの多くはイノシシの不快げな頭の一振り、耳の一はたきで散らされていくのだが、夏野はその損失も織り込んでギンヤンマによる攪乱を続けている。
小型の虫や獣を狩りだし、追い集める過程においてはその物量で優れた働きをするギンヤンマだが、こうして獲物が大型化すれば、一匹一匹の体が小さいギンヤンマの対応できるところではなくなってくる。感覚器を攻撃し、その痛苦で足止めするか、大群の羽ばたきをもって視界を妨害するのが主な働きとなってくる。
この局面において、少年たちの前衛にして主力は二頭の狼であった。
狼達の先方は先ほどまでと変わらない。
狙いを定めた一頭に対し、走らせ、疲弊させ、噛みついて傷を重ね、やがて地に打ち倒し、止めを刺す。
それが狼の狩猟、彼らの戦い方である。今この戦場においても、それが忠実に守られていた。
黒狼がイノシシの後ろ足に噛みつく。顎でとらえたまま打ち振って、傷を広げる。すかさず逆方向から、僅かにさらされるようになった腹部へと幼狼が噛みつく。もう一頭のイノシシは、ギンヤンマに目玉を抉られて逆上の声を上げている。カチカチと歯噛みして牙を研ぐ、その足元には無数のギンヤンマの屍が散っている。
イノシシたちは、じわじわと男体山側、岩場の多い方向へと誘導されていた。イノシシの苛烈な突進力を削ぐ狙いだった。
だが、イノシシの武器はは直線での突撃だけではない。雄のイノシシの牙はまだ短いとはいえ、それでも人間の人差指程度の長さがあった。
狼達はイノシシが頭部を振るい、牙で突き上げようとするのに冷静に対応する。真正面からイノシシに向かうことなく、相手の足を留めさせ、肉のやわい場所を狙って絡み、牙を立てる。
だが、彼らが真に狙うのは喉、それが無防備にさらされる瞬間であり、全ての攻撃はそれを得るための布石である。
狼の唸り声、イノシシが己の牙を噛み研ぐ音、踏み荒らされ蹴り立てられ土埃が舞う。月光に濡れた毛皮は陰影を深め、爛々と輝く瞳は彼我ともに荒ぶる獣の興奮を示す。
戦況を見守る津田の目には、その全てがごく一瞬の攻防としか映らなかった。獣の速度は人の身の追随を許さない。
戦場は既に岩場へと移り、イノシシは追い上げられている。
粘り強くイノシシを削る黒狼、注意深くその時の最大限の致傷を狙う幼狼、そして彼らを牙に掛けようと鼻先を下げるイノシシ。
三者の攻防の果て、決着を奪い取ったのは黒狼だった。
黒狼の牙が深々とイノシシの喉笛を裂き、それでもなお抵抗しようとするイノシシの四肢が、折からの風に加勢するように土埃を蹴り起こす。
イノシシの体が、砂を吹きだすように崩れ、狼達は一瞬視界を失った。
「仕留めた!?」
ギンヤンマの少年の声が、少年の姿を具現せぬままに響く。
野郎年々妙な特技を覚えやがって、という余分な意識が動いたが、津田の口から飛び出したのはそんな些事ではなかった。
津田にしか得られぬ知覚において、"それ"はまだ、消滅してはいなかった。
「違う!――来るぞ、」
それこそが津田の能力であり、彼がここに立つ理由だった。他の三人には知覚しえぬ風景を彼は見、そして告げる。
津田には見えていた。
一度は砕けたイノシシが、その姿をもう一頭と編み直した有様を。
黒いもやは晴れず、凝り、四肢を伸張し、張り出し、そして。
「跳べ、梅ノ木! 狙われてんのはお前だッ!」
津田の警告と果たしてどちらが早かったか。
晴れた土煙、幼狼の目前、最後の一体として転身を果たした大いなる漆黒の牡鹿は、岩の上、その前肢を大きく振り上げ直立したところだった。狼にとっては足元に不安定もある岩場、しかしそれは高山をこそ己の踏む大地とする偶蹄には全く逆のものである。嶺の主に相応しい枝角を誇る牡鹿は、その姿勢でも危なげがない。
ゆえに怨敵への狙いも鋭く、脳天も砕けよとその前肢は振り下ろされ――
岩の根絡み合う最奥。
琥珀の光が一点闇の中で結ばれる。
彼女によって予め条件づけられた目覚めは一瞬であり、その行動もまた一瞬で果たされた。
それは絡め取りの意志を宿命として起動する。
――梅ノ木は、一瞬の意識のブラックアウトから復帰した。
己の周りには熱があり、骨と筋肉の固さがあり、そして風の冷気が鼻の髭先を揺らしている。人の腕に抱かれているのか、と働きの悪い頭で察し、そして彼は呼吸した途端に走る激痛に思考を失った。
幼狼、すなわちあいづちにして梅ノ木は、ここに至ってようやく自身があの漆黒の牡鹿に蹴り飛ばされたことを自覚した。その一方で、勝手に薄く開いた顎からは喘鳴が生まれ、体を整える余裕もなく口の端から舌がこぼれ落ちる。体には諦念めいた倦怠が色濃く染みつき、足先一つ動かせない。
だが、腕の主はそんな彼の様子に頓着することもなく、彼方を見ていた。
「……あいつ、」
呆然とした津田の言葉は、確かに誰かを脳裏に描いてこそ生まれたものと知れた。
梅ノ木は目を閉じたいという欲求に抗い、瞬いて朧な目の前の風景を必死にアジャスト。
やや明瞭になった視界では、牡鹿と黒狼の立ち回りが進行していた。牡鹿の顔の周りに、ギンヤンマが必死に張り付いているのもおぼろげに。
だが、己を蹴り飛ばした牡鹿の動きには不自然があった。
それこそが、梅ノ木への致命的な攻撃を許さなかった要因だった。
後ろ足に絡みつき、引き倒しを狙うように波打ちよじれるもの、それは蒼鱗ぬるりと月夜にきららかな大蛇である。その長大な体は女の腕ほどの太さを備えており、草色に青い燐光をさしたような鱗は鎖めいた斑紋を抱いている。本邦に本来棲まぬのではないかと思わせる、それはくすしき大うわばみだった。
リヤカーの床板を踏む硬音が鳴った。
夜風すら追い越していくリヤカーの疾走の中、くすみのない綿毛のような髪が風をはらんで奔放に踊った。
「後小路サン、今立ち上がるのは」
押しとどめようとした牧本の言葉が途切れた。
笑み顔を常としていた筈の後小路、彼女のその時の表情を、牧本は見てしまったので。
だから、誰の留めも受けぬまま、後小路は視線を遠く女体山の稜線に向けている。
唇が淡く動く。
「しーちゃん」
後小路の胸元、強く握りしめられたその右手は、古びた一枚のカードを強く押さえつけている。
子どもっぽさの残る指でカードの大半は隠れていても、そこに描かれているものを牧本はよく知っていた。
頭巾を下ろした長外套、瞑想するように顔を伏せて胸元に手を組む姿。記された銘は"霊能者"、かつて後小路ではない誰かが、今はここにいない誰かが持っていた役職札だ。
市瀬が目を伏せた。スズメが視線を合わせぬまま後小路の左手を握った。後小路はそれでも視線を揺るがせもしなかった。
尾崎は少女たちに背を向けたまま、風の行く先を鋭く見つめている。
(――市瀬さんを殺したのは、私です)
(狂ってる、それは――お前だって)
彼だけの耳に届く、それは遥かな最期の夜のリフレイン。彼と彼女の間に交わされた偽り交じりの会話が、胸の奥に影絵じみて去来する。かつてのような現在を過ごしてなお忘れえぬもの、忘れてはならぬ棘がそこにあった。悲嘆、悔恨、怒り、虚無、それの前にはいかなる言葉も足りず、十年の時をもってしても未だ名付けえぬ棘であった。それは彼一人が抱えるものでもなく、恐らくはあの日々を過ごした面々が、口にするわけでもなく、それぞれの形でわだかまらせているものでもあった。未だに彼が余人に明かさぬ棘の鋭利、彼女の嘘と己の呪詛、それを尾崎は確かめる。それだけが彼女がここにいない理由ではないとしても。それだけがかつての日々を終わらせたものではないとしても。
尾崎は誰にも見えぬ場所で強く奥歯を噛んだ。
尾崎が額に巻いたタオルを引き下ろすことはない。
なぜなら、彼は狩りの後詰を担うものとして、ウサギを御し、この夜空の風を読み、渡していかねばならないからだ。
彼は己の仕事を果たすために藤蔓の合図を送る。
ウサギ達の後ろ足はなお快速に強く跳ね、連結リヤカーは夜の高天を滑ってゆく。
「変わらないですね。……先輩方は詰めが甘いんです」
いつかと変わらぬ、そばかすの浮いたまろやかな頬には笑みもなかった。
少女は己に伝わる感覚によって、しもべたる大蛇が獲物から振りほどかれたことを悟る。
いつかとは違って短くなった髪は、傍らの射手を振り返ってもかつてのように揺らめくことはなかった。
「準備をお願いします、与一さん。足止め、もっかい行きますんで」
風まく山上、新たな参加者を迎え、なお戦いは続行している。
頭上に掲げる角の枝ぶりも威風堂々、闇を凝らしたような牡鹿は傲然と岩場を踏み、枝角の威嚇も苛烈に狼の接近を牽制していた。振り払われた大蛇は岩陰伝いを流れるように這い、それでも狙いを諦めた風もなく、顎を引いて牡鹿の隙を伺っている。
黒狼、人の身から狼に転じた空閑は、ここにきて攻めあぐねていた。岩山の上に牡鹿を追い上げてしまったことが、彼の攻め手を困難なものとしていた。下方から攻めかからざるを得ない空閑に対し、牡鹿は蹄の打ち下ろしによって黒狼を狙いやすい状況になっている。また、幼狼が離脱した現在、取れる戦法の幅が否応もなく狭められてもいるのだ。
空閑はちらりと大蛇を見た。
狼の金瞳と似て非なる、琥珀の、爬虫類の眼差し。
もし彼の推測が正しいのならば、その大蛇は遠い日に道を分かった少女にゆかりのあるものの筈だった。
ヘビ。可能性を削除し、絡みつき動きを止める。"霊能者"。
それは、"占い師"津田がシカに騎乗し目を光らせ歩むように、"狂人"尾崎がウサギを伴い己を捧げても他者を渡してゆくように、"狩人"夏野がギンヤンマとして他者を守……夏野は一人ルールから外れている気がする。あるいはこれ全てがこじつけなのかもしれないという考えはあえて浮かべない。空想が虹色でなくてどうして思考を巡らせようか。
全ては仮定というにも儚い空想ではある。
だが、その空想を現実に重ねたうえで、空閑は彼女を想う。
かつての日々、彼が最期を得るまでの五日間。色彩を失うように、冬の湖が凍り付くように冷えていく彼女の様相を。人の顔はどうも見覚えが不得手だった当時、それでも可愛らしいとみていた後輩が、漂わせてゆく死の匂い。
あの日から十年、生死は措いてもそれだけの時間を超え、この夜の狩りに加わった彼女は今何を想っているのか。
彼女は純朴で愛らしい、妹のイデアとでもいうべき美徳を備えた少女だったが、それでも彼女が己を赦すことはあるまい、と空閑は信じている。"ゲーム"において、唯一"ゲーム"の真のルールを知りながら生き延びた彼女だ。あの日々を傲慢に破壊した者と、最後の帰結までも無理くりに押し付けられた者の距離は、最果てに立つ者同士として、きっと最も遠くにある。
(そう。みっちゃんが僕の思うとおりの少女であるなら、それは猶更、)
思考を巡らせるうちにも、黒狼の体は獣の魂に従い、牡鹿を狩ることを諦めてはいなかった。
蛇はそれを見ている。
見ている。
ぬめる琥珀の瞳で。
岩肌の温度の眼差しで。
(君は僕を絶対に許さない――そして贖罪は僕の選択肢にない。君だってそれを許すまい、)
空閑は大蛇の眼差しを感じていた。
最期のあの日、会話というにも短いやりとりを思い出す。
彼女は「はい、お気をつけて」と言った。
空閑は「じゃあまたあとで」と締めくくった。
彼女の表情を空閑は見ていない。そして、空閑の表情を彼女も見ていない。なぜなら、その時二人は背を向け合っていた。
あの時、空閑は己の決着を既に定めて「じゃあまたあとで」と告げた。
そして、彼女は"ゲーム"の真のルールを知りながら「はい、お気をつけて」と言った。
それで終わったはずだった。
だが、空閑は今なおここにいる。
続く筈のないものが続いていたならば、彼女は。
(最期のあの夏の日のように――君が僕を許さず呪い続けてくれるなら、)
蛇の目を想う。
琥珀の温度のない眼差し。人ならぬ目。
褐色の瞳。彼女の眼差し。人の目。
あの日、空閑が見ることのなかった彼女の表情、それこそがきっと、この。
(それすら甘美に思う僕は、やっぱり傲慢なのだろうね)
蛇は見ている。
今も見ている。
それが分かる。
空閑はあえて牡鹿の目前で身を揺るがせてみせた。ショートジャンプの際、岩に着地し損ねた風を装って、あえて牡鹿の蹄の攻撃圏に身を入れる。
牡鹿は確かに反応した。岩場に伏せた大蛇を、もはや彼は脅威として認識していないのだ。
あいづちを預かっている津田の声が遠く聞こえた気がする、彼にはこちらの意図が伝わっていないのだから当たり前だが、彼は本当に人がいいと思う。
(さあ、呪っておくれ。みっちゃん――)
空閑は胸奥に絡みつく食虫植物めいた甘美をこらえきれず、獣面の奥で微笑んだ。
牡鹿に空閑自身を狙わせること、それも殆ど致命的な一撃を狙わせること、それこそが彼女の眼差しの意図であると。
この戦場において、姿を見せぬ彼女からのオーダーを確信した、満ち足りと愉悦。その快楽。
(――もはや終わりを喪失し! それでも臆面もなく彼らと戯れ!! なおあいづちと共に歩むこの僕を!!!)
「足止め、いきます」
その声は事実を告げるだけの冷淡さで紡がれた。
少女の傍ら、柑子色の髪をした弓道着姿が古式ゆかしい大弓を引き絞る。
牡鹿の蹄は、空閑の肩を削ぐように傷つけるに留まった
浅い苦痛の中、空閑は狼のふてぶてしさで笑う。頭部を狙われることは、あいづちの例を見て学習している。だから空閑は、その狙いを外す様に動けばよかった。頭部を守り、可能ならばさらに身を捻って飛ばす。頭部を守り、岩場と蹄に挟まれさえしなければ戦闘に致命的な支障はあるまい、と空閑は読んでいた。
空閑が信じ、牡鹿が数え落とした可能性によって、牡鹿の一撃は想定した中で最も軽く収まっている。
空閑が信じ願ったとおり、大蛇の動きは、牡鹿を捉えるためだけの冷徹さをもって完了していた。
漆黒の牡鹿が空閑めがけて前脚の蹄を振り下ろした時、大蛇は瞬発的に伸び上がり、その後脚に絡みついた。そのまま牡鹿の後脚をてこにするようにして、岩場に押し付けるように引き倒す。
後脚だけを接地し、前脚を落とし気味にする不安定な姿勢で、それに耐えられよう筈もない。
不意に牡鹿がのけぞる。その胴体には深々と矢が突き立っている。
女体山の方角、これは学園に宿る人外の一味の手筈か。
口元から唸りがこぼれる。
(邪魔立てしないでくれ、せっかくみっちゃんを確かめられたんだ)
四肢に力を込め直す、岩を蹴る。
牡鹿はまだ、蛇のもたらす戒めの中にいる。矢傷を受けてその喉は無防備にさらされて、
(僕は、だから狼として砕かねばならないのだ―――僕のために、彼女が呪い続けるように)
狼の牙を喉に受けて長らえる獲物はいない。
空閑の顎は、それを証明する。
「わあ。けーしろさんのあれ、キッツいんだよねえ。思い出したらなんか痛くなってきた」
津田が状況にそぐわぬ呑気な声に振り返ると、いつの間にか夏野が傍らで漂っていた。
彼は自分の首元、丁度頸動脈の辺りを押さえて派手に顔をしかめていた。
津田はすぐに合点して同情を示す。
「お前の時はそこだったもんな」
「あん時は激痛のあまり死ぬかと思ったよ」
「実際死んだもんな。そこが致命傷だったんだっけ?」
「うん。見てないのによく覚えてんね津田っち」
「まーなー……つーか、お前ひでえな恰好」
押さえる首筋こそ無傷の様子だったが、夏野の左手は肩口から失われ、両足も膝から下が殆ど存在していないようだった。右手にも削いだような欠落があり、そんなふうに食い残されたような体を、大きく数を減らしたギンヤンマが支えている。だが、それらの欠損にもかかわらず夏野の体に流血の気配はなく、本人にもいささかの悲愴もないおかげで、どうにも現実感がなかった。欠落した体の断面には白っぽいもやが蠢いて、まるで雲を養っているようだった。
夏野は水を向けられて憤然と口を開いた。
「ご飯食べといてホントによかったし! 大物だと顎が通りにくいし、分が悪いんだよなー。体がでっかいだけでも大変なのに、枝角まであるとホント困る、つらい」
「随分悔しそうじゃねえの」
「私だって大物食いたいもん」
眉を立てた笑みで夏野は右手の指を三十本立てた。
津田はお前何やりたかったんだ、と苦笑して、
「指がイソギンチャクみてーになってんぞ」
「あっ」
慌てて夏野は数度自分の右こぶしを握っては開きなおす。すると無事指が五本になった。白いもやはすでに失せ、右手は完璧な輪郭を取り戻している。その代わり、とでもいうように、ギンヤンマの数が幾分減った。
「くそう悪霊め許さん」
「責任転嫁乙。にしても、お前が言うと食べ物の話にしか聞こえねーなー……」
「津田っちたまに私に対して辛辣だよね」
「そうか?」
呑気な会話の彼方では、ゆっくりと闇の転じた牡鹿が解けていく。
纏っていた闇は影として抜け落ちて、内側からこぼれ昇るように目にも穏やかな燐光が瞬く。
緑を帯びた柔らかな光は、この世の重力の枷を外されるようにしてさらなる空へと昇って行った。
星を治め天に浮かぶ月は、完全に満ち足りた月、狼の月。霊妙の光のたゆたいは、まるで月へ至るかのように昇り、やがて視覚から失せてゆく。
見送りの声のように黒狼が声を上げた。
あ、という音を長く引き、豊かな抑揚をもって謳われる、それは狼の遠吠えだった。
己の存在を印<しるし>し、山野に届けと彼の闊歩する地を知らしめる声。
津田の腕の中で、たまらなくなったように幼狼が身じろぎした。前脚で津田の腕を押さえて体を支え、ずんぐりとした頭を上げる。背筋から頭部までを一直線に、喉を逸らす。
遠吠えは二重唱となり、高く低く重なって、昇った光を慕うように献じられた。
津田が声を追うように空を仰ぎ見れば、儀礼を終えた少年たちを迎えに、ウサギに曳かれたリヤカーが降りてくるところである。
一方の山頂、女体山の社前。
猫の額のような広場には数人の人影がある。
その中、岩に腕をつけて安定を取りながら双眼鏡を覗く小柄な姿があった。少し硬そうな髪を短く整えたセーラー服姿、ナップザックを足元におろしている。
「命中確認――はい、……大きい狼が仕留めました。目標、散ってます」
少女は淡々と報告の言葉を上げた。彼女の足元の岩場には、薄青い燐光を鱗として纏う大蛇が従容としてとぐろを巻いている。
彼女の報告を受けて、いま一つの山頂を透かし見るようにしていた弓道着姿の青年が残心を解く。岩棚に立ち、つい先ほどの一矢を放ったのは柑子色の髪を束ねた彼だった。弓返りの震えを納めた塗籠藤<ぬりごめどう>の弓を腰に下ろす、その青年の腕は左右で長さが違っていた。
「優花、」
弓を下げたまま、弓道着姿は背後の少女の名前を呼んだ。
「はい、なんでしょう与一さん」
弓道着姿が振り返った時には、少女――清水優花はペットボトルを抱えて与一の背後に控えていた。報告を終えた後、すぐにナップザックから取り出していたものと見えた。ラベルの剥がされた500mlペットボトルには透明な液体が詰まっている。
与一はわずかに眉をあげてペットボトルを受け取り、
「いや。丁度それを頼もうと思ってたところでな。お前はよく気が付くな」
「ありがとうございます。与一さん、……前から気になってたんですけど、これ何が入ってるんですか」
ペットボトルの中身を呷った与一は軽く息を整えて、
「酒だ」
「酒ですか」
うむ、と頷いて与一は再びペットボトルを傾けた。まるで水のような飲みっぷりだった。もしかしたら、彼をはじめとするある種の存在にとっては、本当に水のようなものなのかもしれなかった。
「先月の、都での祭りの土産でな。俺も稲荷の末席を貰ってる以上、面倒でも顔出しして挨拶回りをせねばならんのだが、これがなければなんとしてでも行かんだろうなあ……」
ペットボトルの大半を空け、しみじみと呟いた与一がぴくりと視線を上げて身を止めた。僅かに上を向いたような鼻先が、どことなく獣めいていた。
「ああ、カゲさん。お疲れさん」
彼の動きにつられて清水が背後を振り返る。
モールス式の通信機を手にした黒子がそこには佇んでいた。
「その様子だとあちらからも連絡が入ったかな」
是、と黒子が頷いた。そのまま、いくつかの複雑な身振りで与一と情報交換を始める。どうやら、黒子の方の通信作業がひと段落したようだった。
「というわけで、今年も無事に終わった、と……カゲさんも慰労の一杯をどうだい、今年の出来もどうして、なかなか悪くないぞ」
与一がペットボトルを差し出すと不要、とばかりに黒子が手を振る。それを確認して、「じゃあ俺が貰おう」と再び与一は清酒を呷った。眺めていると、お前も呑むか、とばかりに与一がペットボトルをこちらに突き出すので、清水は慌てて手を振って辞退する。この世話役の狐はどうもデリカシーに欠けるところがある。
「もうちょっとましな容器無かったんですか? スーパーで配ってる水じゃないんですから。お酒の度数によっては溶けますよソレ」
「実用本位が一番でな」
どうせ清酒しか入れぬのだし、と与一がペットボトルのキャップを締めた。どうも、水筒を手に入れるという思考には至ってはいないようだった。
「あっちの学校の連中が駆除を手伝ってくれるようになってこの時期は楽になった。稲荷では不足とは言わんが、役割が違うからな。大口真神<おほくちのまがみ>が二頭というのはいい、実にいい」
しみじみと余一は呟き、向かいの山頂を透かし見るようにした。手中で手慰みに転がしているペットボトルが、しらじらと月の光を流している。
「昔は田の神をこうして山に上げたものだがな。今は人の世の魔性を運び流して祭り上げ、秋の大祭りに備えるとは、世は移り変わるものだなあ」
「そういうこと言ってると稲荷神っぽいですね」
「俺はそんなことよりも、毎日だらだら稲荷寿司食っちゃ寝したいだけなんだがなあ」
「……そういうこと言ってると駄目な大人っぽいです。日夜ちゃんと狩りしてる眷属のキツネの皆さん見習ってくださいよ」
「働くために生きるような人生など、本末転倒というものだぞ。それに、偉くなれば働かなくて済むのだと普段から見せておけば、出世のし甲斐もあるというものだろうが。……そんな目をするな、うちはちゃんと査定に応じて定期的な昇格も褒賞も行っているのだ、下手な人間社会よりきちんとやっているぞ」
与一からペットボトルを受け取った清水は、はあ、と肩をすくめた。人外の世界も、内側に入ってみれば思いがけず俗なものらしかった。
「こっちの学校、旧校舎はなんであんな奇妙なことになってるんです? ……奥の倉庫になってる教室、コルホーズ型結界が乱立してたんですけど。なんかちんまりしたのが変なキノコ育ててたり」
「うちでは共産主義という名の妖怪が歩き回っていてな。これでも幾分マシになったのだ、毛沢東と呼ばれた悪霊が統治していた時代など……あれは大変だった、我々古来からの怪異が同盟を組んだ程だ。なあカゲさん」
清水が視線を向けると、黒子は大きくうなずいた。そのまま、彼らは土偶がどうの、毛沢東がどうの、と身振りを交えて与一と思い出話に花を咲かせているようだった(現在の清水にはカゲの動作を解読する訓練が十分でなかったので、与一の発した単語から流れを推察することしかできなかった)。
一方で、清水は与一の言葉に記憶と若干の齟齬を感じていた。与一とカゲのやり取りがひと段落したところを見計らい、それを素直に口にする。
「その毛沢東ですけど。先日、討ったのは人間だと教えて頂いたような」
「面倒事は人間に任せるに限る」
「丸投げじゃないですか」
「アウトソーシングの活用というやつでな。下手に内製化するより世の中が流動化するのだ」
「大人の弁論術はいいとしましても、えらく生臭い語りになってる気がしますが」
「言葉の解釈に些細な誤解があるようだが……何にしろ、その後の始末を我々でこなしたのは事実だぞ」
「今だってまだコルホーズ残ってるじゃないですか。はよ雪融けしてプラハの春迎えましょうよ」
「あの連中が人間の顔を得るというのか……大型のはさすがに落ち着いたからな。こうやって、年一で大掃除すればいい。まあ、今年は少々厄介だったが」
他人事めいた口調の与一は、ふと口をつぐんで清水に視線を置いた。
「なあ優花。本当に、あっち側に行かなくてよかったのか? 十年を経て、結局この土地に戻ってきたのだろう、お前は」
それは年経の狐らしい腹の読めない眼差しだったが、それでも清水は揺らぐことなくまっすぐに見返した。
「ええ。私は今、あの場所で彼らと一緒にどうこう、とは考えていないので。……何か、それで問題がありますか?」
いや、と与一は気のない声を出した。そのまま首をかしげてこきりと関節を鳴らす。
「うちは自由度高めが売りだからな。筋さえ通してもらえれば、こっちも口出しはしないともさ」
「ほむ。私だいぶ譲歩されている気がするんですが、もしかして、この……この業界? 売り手市場なんですかね」
「このところは、有望なのがこっちに流れてこなくてなあ……以前も、人員補充が出来そうだったのに、土壇場で逃げられたのだ。あれは残念なことだった」
「はあ。えらいところに来てしまった気がしないでもないですけど」
「これがこっちの世界で、お前の選んで訪れた場所だ。どうだ、帰りたくなったか?」
与一は試すようににやりと笑った。
その笑みこそ、この怠惰で人を食った振る舞いの若者姿の本性、正しく人ならぬ世のものの表情だった。
だが。
「いえ――きっと、私にはここが似合いでしょう。
私の意志は、私の楔するところによって、あの場所を選びません」
清水は己の過去を語らない。彼女の過去は化生の一味に共有されるべきものではなく、ゆえに彼女の愛憎全ては胸奥の珠玉として秘されている。
気負いもなく告げる清水の瞳は、黒子の纏う闇よりも黒く、この夜のように底が見えなかった。あるいは十年の時を経てなお変わらぬ姿でこの世にある彼女も、すでに人ならぬものの岸に佇んでいるのかもしれなかった。言葉の切れた静寂、狼の遠吠えがこの嶺にも届いていたが、清水の表情は変わらなかった。
全て見定めたのか否か、人の世を長年渡り続けた狐の化生はただ一声、そうかと笑い、夜影の首領たる黒子は影の名もそのままに、なお無言で佇んでいた。
2014 @huhgi