平成三十六年の "夜の騎行" < ワイルドハント >

第二章 月光航路





「これからどこに向かうんですか」
 夜景への興奮から星見夜少年が帰ってきた後の問いかけに、真っ先に応じたのはスズメだった。初めに星見夜少年と顔を合わせたからか、元から面倒見がよいのか、彼女は星見夜少年を気にかけているようだった。梅ノ木の言葉を受けてというだけではないようだった。それは星見夜少年としてはありがたくもあるが、同年代の少女に世話を焼かれているようで少々の反発がないでもなかった。
「男体山の頂上よ。一度裾野に降りてから、美雪ケ原に上がって行くルートになるわね。そこから男体山のお社を目指すの」
 星見夜少年が住む町において、単に山と言った場合、町北部にそびえる双耳峰を示す。
 市街地からはその背後に佇むような形で、丁度二つの嶺が並んで見える。その双耳峰を繋ぐ鞍部が美雪ヶ原である。
 二つの嶺は、なだらかで端整な輪郭を示しているのが女体山、岩場が多く荒い輪郭を示すのが男体山と古くから呼びならわされていた。古くは霊峰とされた双子の嶺は、それぞれの頂に小さな社を頂いている。
 それは、星見夜少年の中にも知識として息づいているもので、
「星見夜神社の奥宮ですね」
 スズメが頷く横で、後小路が目を丸くした。
「え、あのオヤシロって星見夜神社の管轄なのっ?」
「管轄っていうか、その子が言ったとおり、頂上にあるのが奥宮なんです。町にあるのは本社で……拝殿、ええと、祭祀をするときの場所は町の方の神社の中にあるんだけど、ご神体そのものは山の方にあるのね。ご神体を置いておくための場所が奥宮だと思ってもらえればいいかなあ、その、……星見夜神社の場合」
 星見夜少年は少々驚いた。実家の社殿詳細を把握している同年代は初めてだった。
「よく知ってますね」
「あ、うん、まあね。ちょっと興味があって調べたことがあるのよ、そう」
 取り繕うようなスズメをよそに、牧本が小さく声を上げる。
「見えてきた」
 視線の先、山の起こりは夏草繁る草原として広がっている。



 後列の賑わいは、前列のリヤカーにも届いていた。
 リヤカーに背をもたせ掛けていた梅ノ木が小さく眉を上げた。視線は後列のリヤカーを向いており、
「ああやってるとただの中学生にしか見えねーなあ」
「どちらが?」
 顔を上げ、梅ノ木の表情を眺めた空閑が小さく笑う。
「そだな、両方」
「あの子こそただの中学生じゃないのかな」
 首を傾げた空閑に、梅ノ木は小さく唸って頭をリヤカーの側板に乗せた。
「今回の件、何が要因なのか分かんねえんだもん」
「成程ね。判断保留ってことか」
「そそ。あんま今考えても仕方ねえしなあ。こういう話に詳しい奴、こっちに今いねーじゃん?」
「僕らは存在がオカルトなんだけどねえ」
「もう十年になるが、未だに自分たちのことが分からないっていうのも不便だな」
 空閑がまぜっかえし、市瀬もメガネを押し上げて会話に加わった。
「研究に丁度良くね? どう?」
「再現性が取れなさそうな話は好みじゃない」
「再現性のために来年も来てもらったらいいんじゃないかな」
 はんなりと空閑が言葉を継いだ。そうだなあ、と冗談とも本気ともつかぬ声で市瀬が受け流す。
「お前らなあ、あいつに睨まれても知らねーぞ。せめて、本人に聞こえるとこじゃからかうなよ」
 尾崎の心配に、各々から気の抜けた返事が戻った。尾崎は今後の波乱の可能性を考えて少し面倒な気持ちになった。彼の心配は後々違った形で的中するのだが、今のところは予感に留まるのみである。
 そんな尾崎の懸念をよそに、ふと市瀬がイヤホンに耳を寄せた。通信が入ったらしい様子に、少年たちは口をつぐむ。
 沈黙の中、やがて細い指先が高速に通信機の上を動き、定型のメッセージを打電する。
 最後に五打の通信終了信号を打ち、市瀬が顔を上げた。
「あちらさんから?」
 梅ノ木の問いに彼女は頷き、
「風返し峠から山に入ったとのこと。少し時刻が早いがそれ以外は予定通り、草原まで追い込むルートに異常なし。津田組との連絡も滞りなし、だそうだ」
「どこも順調とみてよさそうだね。もうそろそろ、見えてくるかな」
 空閑が草原の端に目をやった。満月の元、地上では夏ススキがさやさやと揺れている。



 リヤカーの航路を遮るものが空中にあろうはずもなく、眼下から静穏を乱された夜の鳥の声が時たま立ち昇るのみだった。リヤカーは尾根を下り、山裾の草原にかかろうとしていた。
 星見夜少年はふと夜の中に違和を捉えた。
 満月、影を描くのも明らかな光の中に微かな棘がある。
 地上に目を凝らす星見夜少年の姿に、あら、とスズメが声を上げる。
「気付いたのね」
 注意して見つめるうち、やがて違和感の源が明らかになった。
 月に照らされる山裾、その草原の端を噛むように、さざ波立つような淡い銀色が萌<きざ>している。
「夏野が来たな」
 低い声で空閑が呟くのが風に乗って聞こえた。うっそりと笑う彼の視線は、草原をゆく何者かを確かに捉えているようだった。
「今夜はこれからが本番よ。よく見ておくといいわ」
 スズメが魔女のように微笑んだ。



 それは無数のトンボの群れだった。
 星見夜少年の目には細部まで見ることはかなわなかったが、それは一種の大型トンボのみで構成されている。
 夏草と等しい鮮やかな緑、腹に真昼の青空を帯びて、背に頂くのは月光を弾く琥珀の薄翅――ギンヤンマ、"小さな皇帝"の名を冠する猛々しくも端整な夏虫の雄。本来なら群翔することのない、孤独な空の狩人、それが群れを成して飛翔しているのである。立体的に航路を重なり合わせたギンヤンマたちは、その翅のために遠くからは白銀の波めいて、ほの明るく浮かび上がって見えすらした。
 清かなこの虫の波が追い立てるもの、それもまた虫であった。
 雲霞と称するのが正しい、おびただしい羽虫の群れである。だが、その微細な姿は世に知られるどんな種類の虫とも異なっているようだった。毛深いもの、飴をねじるように翅を伸ばしたもの、か細く長い六肢を持つもの、葉脈めいた触角をもつもの、その姿は様々ながら、彼らに唯一つ共通しているのは、その全身がとろりと濃い闇色をしていることだった。
 黒いもやめいた羽虫の群れは、ギンヤンマの波に追い立てられていた。空中にあって、高い直線加速力と強力な顎を備えたギンヤンマは上位捕食者である。
 よくよく目を凝らせば、それだけではない。時折ギンヤンマの群れの一部が突出したかと思うと、それが鋭く加速して、羽虫の一角を切り取ってゆく。波頭とでも称するべきギンヤンマたちはそのまま黒い雲霞の側面に抜けてゆき、いずれ旋回して己の群れに回帰する。
 黒い羽虫の群れは、そんな風に時間をかけて追跡され、圧縮され、そして捕食されていった。ギンヤンマの狩猟に手控えはなく、左右と上空、三方から推し包まれる形になった羽虫群は、その圧縮を余儀なくされていた。彼らの密度は高まるばかりで、黒く、なお黒く固化していくようだった。
 黒いもや――羽虫の群れは、この時点でようやく草原の半ばに到達したところである。



「梅ノ木、空閑」
 メッセージを受け取り終えた市瀬が顔を上げた。
 梅ノ木は常の通り、察し顔の空閑は高揚を隠しきれぬ様子で、彼女を見る。果たして通信の内容は、
「津田から連絡。"ネズミが出た"そうだ。あちら側からも、"これから出る"と応答あり」
「そか、んじゃおれらも位置についた方がよさそうだな」
 リヤカーの縁に手をかけ、梅ノ木と空閑が立ち上がった。
 二人は地上を一度見下ろし、
「行くよ、あいづち」
「おうよ、もくば」
 歯を見せた強気の笑みを交わし合うと、プールに飛び込む気軽さで彼らはリヤカーから飛び出した。
 反動でリヤカーが揺れる。蔓の連結で伝播した振動が後列リヤカーにまで至り、ちょっとした悲鳴が連続するのを手土産に、くすぐったいような笑みをこぼして少年たちは空を墜ちてゆく。



「あいつら、毎年リヤカー揺らすなっつってんのに無視しやがって……」
 そつなくリヤカー壁面のアンカーにしがみついていた市瀬は、背中越しに尾崎を振り返る。彼の姿勢からして、げんなりとした声を出した尾崎もこの成り行きを心得ていたものと見えた。
 まあまあ、と市瀬は宥めの声を掛け、
「お前の運転技術を信じているんだろう。いや、それともウサギたちか」
「絶対ェねーわァ……」
 げんなりしたような尾崎の声がおかしくて、市瀬は小さく笑う。荷台は市瀬一人で占拠する形になったので、今しばらくはゆとりがあった。ここぞとばかりに足を延ばしておく。ついでに目に留まったので、空閑の残していった文庫本が落ちないよう、固定された小物入れにしまい込んでおいた。ちらりと見えたタイトルは「銀河鉄道の夜」だった。縁起が悪いと思うか、また折りがいいものを、と思うか、市瀬は少し迷った。
 後ろのリヤカーからは、星見夜少年の悲鳴から始まって驚愕に変じる声が聞こえてくる。新顔がいると何事も新鮮になって悪くない、と他人顔で市瀬は思う。
「ああ、市瀬」
「なんだ、尾崎」
 尾崎の声が真面目なものだったので、市瀬は視線を相手に向けた。
「この先、山の間に入るあたりで風向きが変わるかもしれねー。後ろの連中にも警告しておいてくれっか」
「了解した」
「……落ちるなよ」
「お前は心配性だな」
 反射的に言い返してしまったものの、市瀬は小さく口の中で気を付ける、と付け加えた。
 それを聞いていたかいなかったか、風に向かう尾崎の背は夜空の中に一人、屹然と立つ。



 恐れげもなくリヤカーの外に身を躍らせた二人の少年は、空中で身を前転させたとみるや、その姿を変じていた。
 一人は夜影もかくやという黒狼に。夏毛のさばさばとした輪郭も涼しげに、肩の丈高く、背筋には意外なほどのたくましさがあり、アーモンド形の目許は大人びた野生の冷徹を見せていた。それでいて、淡い金瞳には満月を水に溶いたような繊細が映っていた。
 今一人は一年仔というにも若い灰色狼に。ふとましくも短い顎、むくむくとした足つきが、それでも力強い。まだ小ぶりの立ち耳がいかにも幼げだったが、茶の強い金瞳には、隠せもしない気の強さがある。
 彼らは足場のあるはずもない宙で確かに一歩を踏み、岩場を駆け下りる獣の歩法で大地へと降り立った。足の長さの感覚が一致していないのか、幼狼が足をもつれさせたが、かろうじて踏みとどまる。
 二頭の狼は互いを互いの視野に収めると、いかにも嬉しげに耳を振り、尻尾を振り立てる。全身を伸ばして駆けまわることが、いかにも楽しくてならぬ様子だった。幼狼の方などは、興奮した様子で遊びをせがむように黒狼に前足をかがめすらした。黒狼は幼狼に応えて穏やかに尾を一振りすると、一転彼方へと鼻先を向け、耳を立てる。耳先が僅かに揺らめく、そこだけ別の生き物めいた、繊細で緊張感のある動き。幼狼も彼に倣う。
 風の跫音<あのと>に耳を傾けるような、一拍の静謐。
 やにわに黒狼が駆け出した。仔狼も遅滞なく追随する。余人には伝わらぬものながら、確かに二者の間には何らかの交感があるようだった。
 下生えを揺らし、野の生き物を払い、二狼はゆく。灌木もねじれた樹も彼らの前には障害となりえず、正しくそれは森の狩猟者の行軍であった。
 狼の行く道は満月の元、森の中へと消えている。


 後部リヤカーでは、星見夜少年がようやく落ち着いたところだった。
「強風注意だって」
 後小路が市瀬からの伝言を展開した。
「あんまり揺れないといいけど」
「さっきみたいなのはもう勘弁です……、このリヤカー、本当に大丈夫なんですか」
 胡乱気に星見夜少年はリヤカーを連結する蔦を見た。青々とした葉が夜風に揺れている。それは、この夜の中でひどく頼りなげに見えた。
「乗り物自体は問題ないけど、人の方かな……この高さから落ちるのは、ちょっとね」
 星見夜少年はリヤカーの縁から改めて下界を見下ろした。目測した高さでも、ちょっとどころでない事態になるのが明らかだった。さっきの狼の二人のような異能の者を目にした後ではそれも疑わしくなるけれど、少なくともただ人の自分では助かるまい。
 だんだん己の想像が現実に対して辛辣になってきたので、星見夜少年は真下を見下ろすのをやめ、草原を見透かすことにした。どうせ現実を直視するなら、前向きなことを頭に浮かべた方がいい。
 だが、草原では攻防の様相が移り変わろうとしていた。



 異変は羽虫たちに生じた。
 黒い羽虫たちは、急激にその飛行高度を落としていた。地表をかすめる高度で飛行していたものもあった筈である。それはギンヤンマの群れの誘導意図からも外れたもので、つまり羽虫たちの自主的な選択の結果であった。その狙いはすぐに明らかになる。
 地表すれすれの高度に集まるなり、羽虫たちは共食いを始めたのだ。
 顎を打ち付け、六肢を絡め、翅で叩き、その攻撃的な意志は、だが別の結果をもたらした。
 身を触れ合わせた羽虫たちの体が融合し、肥え太る。八匹が四匹となり、四匹が二匹に、二匹が一匹、その連続がついにある段階に到達したとき、その姿は完全に変じ、もはや四本となった四肢で大地を疾駆する。
 それは、闇の色をしたネズミである。
 それも、仔猫程の大きさがあるドブネズミだった。腰つきはがっちりとして尾はふとましくやや短く、ミミズめいた肉の厚みがある。いかにもふてぶてしい鼻先をひくひくと蠢かせ、草原の植物のごく微細な隙間をかいくぐるようにして彼らは走る。ずんぐりとした体は意外なほどの速度で草むらに忍び込み、尾だけが残像めいて這う様は、大きな長虫のようだった。
 ギンヤンマが恐るべき空の捕食者であるとはいえ、それはあくまで虫が相手の場合である。哺乳類、それも草陰を巧みに利用する小回りの利く相手には手の出しようもない。
 ギンヤンマたちはついに飛翔高度を上げた。そのままホバリングに移る。
 次々とネズミに変じていく影の羽虫たち、それを相手に、とうとう追跡を諦めたかに見えた。
 時勢を読むようにドブネズミが足を止め、空気の匂いを嗅ぐ、その時。
 ――ギンヤンマの治める空の元、駆け抜けた柑子色の前肢がドブネズミを逃れようもなく押さえつける。臓腑の皮をこすり上げるような悲鳴も、さして響かぬまま獣の顎の中に消えた。
 獣を喰らうのは、獣である。



 その狩猟の様子は、上空からも良く見えている。
「今度はキツネ……?」
「ああ、あっちの学園の人たちが来たわね」
 スズメの声は予定調和を告げていた。
 ギンヤンマは、追跡を諦めたのではなかった。
 彼らは場を――地上を譲ったのだ。
 町の方角からススキの波間を越え忽然と現れたのは、柑子色のキツネの一群だった。
 羽虫の変じた黒いドブネズミを狩る、彼らもまた夢幻の生き物かと思われた。
 ススキの穂の影から跳躍し、前肢でドブネズミを押さえつけて捕食する。彼らに植物はさしたる障害にならず、鋭敏な聴覚と嗅覚が獲物を捉え、確かに牙に掛ける。
 キツネたちは柑子色の波となってネズミたちを追い、後詰するようにギンヤンマが後に従う。それは一方的なキツネの狩猟のように見えた。
 ドブネズミたちもただ走って逃げるばかりではなかった。数匹が寄り集まり、ひと塊に跳躍したかと思えばその姿はコウモリに変じて空を目指す。
 だが、それこそギンヤンマがいまだ草原から離れぬ理由だった。
 四匹編成のギンヤンマの飛行小隊がすぐにコウモリに取りついて顎を立てる。致命傷を与えることは叶わずとも、彼らの与えた苦痛はコウモリを地上に叩き落とすのに十分で、そして墜落したコウモリは二度と飛ぶことなくキツネたちの餌食となった。彼我にして数倍の翼長であるコウモリを相手にするギンヤンマとて無事には済まないが、彼らは自分たちの損傷も死も厭わぬ有様で、転身したコウモリに襲い掛かる。
 星見夜少年は、地上の攻防を息を詰めて眺めていた。
 しらじらと輝く翅のギンヤンマが編隊をなして舞い、キツネが波しぶきめいて草原の中を浮き沈みし、染みのような黒を駆逐していく。
 草原から森に逃れようとする動きもあった、だが、森の中にもなお暗い何者かが蠢いており、ネズミたちを草原から逃がさない。これは全て、周到に計画された狩猟なのだと、この夜の闖入者である星見夜少年をしてそう思わせる布陣だった。
 キツネの一群が盤上に加わったことで、ネズミたちは目に見えて数を減らしている。
 今もまた、野火めいたキツネの赤が飛び上がる。そして沈み、また浮かび、その幻惑的な情景に、星見夜少年はすっかり飲み込まれていた。
 だから、己の姿勢が前のめりになっていることに、その時が来るまで気づかなかったのだ。
 リヤカーは草原に平行に走り、双嶺の丁度狭間に相対していた。
 嶺からの風が強く吹き降ろす。
 がくんとつんのめるようにしてリヤカーが揺れた。蔦が軋みを上げる。
 背後から押されるように大きく揺れた上体、星見夜少年が首から下げていたカメラのストラップがすっぽ抜ける。慌てて立ち上がって手を伸ばす、その動きは、大きく空中を掻き、
 視界が反転、地表が見える。
 黒い夜の森、草原、キラキラと輝くギンヤンマ、時折混じる赤のキツネ、深い夜影、
「危ないッ!」
 ――悲鳴以外の何物でもない、少女の声を聴いたと思った。
 気が付けば星見夜少年はリヤカーの上に引き倒れていた。胸の上に強く衝撃、固い感触はカメラのものか。
「チュン子ちゃんっ」
 後小路の悲鳴が耳を打ち、星見夜少年は全ての帰結を理解する。



 スズメは夜の空を落ちていた。
 背中を地面に向け、視線は天上を仰いだまま、重力に囚われて落ちてゆく。
 あの子は無事にリヤカーにいる。それがとても嬉しい。
 天の川燦然たる星空を仰ぎながら、スズメは心から静かに笑っている。



 敢然と空を奔<はし>るものがあった。
 爪先立つような偶蹄は、空ですら岩場を昇るように踏む。
 額に森のごとき枝角、白らんだ体に星を蒔いた斑紋、白い体毛は変種めいた神聖さで。
 追いつく、必ず届けるという、強固な乗り手の意志が、その獣の疾走を支えている。



 リヤカー上で事態を視認していた市瀬の行動は、冷静で迅速だった。
 市瀬は通信機のモードを切り替え、既定の周波数に合わせて相手を呼び出す。
 だが、
「――俺が言うまでもなかった、か」
 気抜けした声の視線の先には、落下した少女を抱きかかえる今一人の少年、牡鹿に騎乗した津田がいる。



 視界の中の星空が陰り、体に衝撃が走った。だが、それは痛みまでは届かない。
 横抱きにされている、ということにスズメが気づくまで少しの時間がかかる。
「無茶すんなあ」
 ごく近くから聞こえたその人の声は、存外に優しげに響いた。それが咎めの色を持っていないことに、落下から助けられたという思いよりも先に安堵が来た。
 津田先輩、とスズメは口の中だけで呟く。
 枝振り見事な角の牡鹿、その乗り手の腕の中に彼女はいる。
 その事実を確認した途端、改めて含羞が生まれた。二人っきりだったというわけではないにしろ、近くで過ごした時間はもはや一年二年ではない筈なのに、この人のごく傍らにいることは、どうしてかこんなにも面映ゆい。息が少しずつ強張って行って、背後にあるはずのその顔も、まともに見上げられなかった。
 そんなスズメの内心を知ってか知らずか、津田は穏やかに言葉を続けた。
「まあ、必死になるのも分かるんだけどな。俺も話は市瀬から聞いてる」
 だからってわけじゃねえけど、と一拍クッションを置いて、
「頑張ったなあ、雀」
「え」
 突然の呼びかけに、今度こそスズメは固まった。こわごわと見上げた津田の顔が、微妙にこちらと視線を合わせないのは気のせいだろうか。そして、それは文脈とは違うところが理由のような気がするのだけれど、それもまた気のせいだろうか。
 スズメの戸惑いの声に、津田が取り繕うように応じる。
「あー。ほら、さ? 今はそういうことになってるんだろ?」
「ああ……はい、そうです」
 己の顔にひたすら熱が集まっていることをスズメは自覚していた。未だに詰め切れない、青いはにかみのような距離が、津田と雀の間にずっとある。今は遠くなった放課後にか、あるいはそれよりもっと以前の境内でか、かつてスズメの胸に宿った健気な憧憬は今も津田に向いていて、彼女を時折内気にさせる。けれど、これまでに得た時間の中で、憧れの中のいくつかは枯れ、いくつかはなお育ち、その定義を緩やかに変えつつあった。そして、その変化が及んだのが、己だけでないこともスズメは知っている、それが、恋に惑った少女の願望ではないことも。
 それでも、どうしたって踏み出しきれずにきた。
 だけど、どうせ今ここにいるのは己と津田だけで、リヤカーの一行は離れたところにいる。草原の方だって、ギンヤンマの方は当分かかりきりだから、夏野との合流はリヤカーの上だ。
 だから。
「あ、あの!」
 だから、スズメはもう少しだけ欲張りになることを己に許すことにした。
 少しだけ、これまでの自分のいた場所から一歩だけ、外に出る。
 そんな言葉を作る。
「落ちそうで怖いので。もう少し、くっついてもいいですか」
 怖いので。
 そう、怖いので。立派な理由だ。何しろ私はさっき空中のリヤカーから実際に落ちた。その上で現状を語れば、シカに乗せてもらって空中遊覧中ということで、客観的に考えても恐怖が持続していることはおかしくない。
 状況は利用すべきである。それは、往年のゲーム会で覚えたとても大事なことだ。
 それに、津田先輩だって今、似たようなことをしたのだから、私だってそれをしたって構わないだろう。
 人間心理は利用すべきである。それもゲーム会で覚えた……いや、これはどうか。まあ、物事には頼み方というものがあるのだ。そういうことだ。よし。
 そう、自分にも相手にも、これくらいの言い訳を積まないと通らないものもあるのだ。
 ずっと同じ場所にあり続けて、固まってしまったものを壊すには、それなりの力が必要だ。そのために、最初のスコップの一掘りとして理由を作る。理由を分かち合う。さっきの津田の言葉だって、そういう種類のものだった。だから、スズメは貰ったボールを投げ返す。
 果たして、
「お、おう」
 上ずったような了承の返事があった。
 緊張させているなあ、という実感が少しおかしくて、スズメは少しだけ笑った。すると、その声に反発するように背中を包まれる感覚があった。
 そうだ、この人は結構挑発に弱い。知ってる。こわごわと遠くから見ていたいつかよりも、今はずっとこの人のことを覚えた。
 だから、自分も背後を委ねるようにする。
「あのな」
 少し間合いを計るようにして、津田が小さく呟いた。
「?」
 相手の表情が見えないまま、スズメはそれに耳を傾ける。声と言葉、背後の熱だけが相手の感情を伝える。
 津田の言葉は、沈思に息をひそめるようにして続く。
「俺は、さっき褒めたけど。ほんとはお前が落ちていくの、すげー怖かったよ。……あれはもう、御免だ」
 最後の言葉が、現在ばかりを示すものではないことを何となくスズメは悟った。
 夜の校舎の地下階段。
 凍り付くような寒さと透徹の水の記憶。
 かつての終わりと今の始まり、その境目となる出来事を。
 けれど、それを想ってなおスズメはゆるく首を振った。
 この人の言うことなら、つい何でも頷きたくなってしまうけれど、それでも頷けないものがある。それは本当に僅かなものだけれど、その一つが、例えばあの少年だった。
「もうしない、とは言えないです。それだけは譲れません、ごめんなさい」
 でも。
「津田先輩のいないとこじゃ、やりませんから。だから、……次もまた、助けてください」
 だから、これからも一緒にいてください。
 その言葉だけはさすがに口に出来なかった。
 それを言うには、この場はまだ若すぎる。いつかはきっと告げる言葉だとは確信しているけれど。
 背を委ねた人は、少し笑ったようだった。スズメは津田の喉元が少し震えるのを感じていた。この距離は、本当に隠し事が出来ないのだ。
「仕方ねえなあ、じゃあ、目の届かないとこに行くなよ」
「……はい」
 声が跳ねそうになったのを隠せただろうか。多分、伝わっている。でも、構わない。
 改めて、自分の緊張を解くようにして背中を相手に添わせた。頭から肩口にかけて、骨ばった胸の固さ、そして熱があった。それが分かる。
 この人にも同じようなものが伝わっているだろうか。己はどんな風に受け止められているだろうか。
 そう思えば呼吸すら意図しなければできなくなってしまうのだけれど、相手の熱を覚えながら思考をたゆたわすのは眩暈がするほど甘美だった。
 互いに次の言葉を紡ぐにはあまりにも惜しい、甘い沈黙が二人を満たしていた。
 視線を落とした先、草原の際には時期の遅いタツナミソウの仲間が群生している。恥じらいだような閉鎖花弁もほの白く、月光を留まらせて行方を導くようだった。
 柔らかな恋心めいた花を辿り、天駆ける牡鹿は恋人未満の少年少女を運んでゆく。



 草原は決着を迎えていた。
 キツネの群れは手筈通りに草原から山へとネズミを追い詰め、次の狩人の待つ場所へ獲物を追い込んでいた。大地に追い詰められたネズミはさらにウサギへの転身をすすめていたが、それでもキツネに対抗することができるわけもない。しんがりを務めていた一際見事な赤狐が、山の入りで大きく輪を描くように跳ねる、それがこの草原における狩猟の幕引きの合図だった。
 役割を終えたギンヤンマが一斉に回頭し、銀色の雲のようなさざめきを生み出した。その中には、いつのまにか一人の少年の姿が凝<こご>っている。
 津田が腕を振って合図すると、ギンヤンマの少年も心得顔で頷きがあり、リヤカーへと進路を取って上昇する牡鹿に従うようにして、ギンヤンマの少年も飛翔する。
 子どもたちの航路はなお道程半ば、双子の 山巓は遥かである。




BACK | NEXT | INDEX
2014 @huhgi