平成三十六年の "夜の騎行" < ワイルドハント >

第一章 夜の子どもたち



 少女は星見夜少年の手元に懐中電灯があるのを見て、少年に何事か耳打ちすると、
「他の人にも伝えてきます」
 と踵を返した。彼女が向かった方向を見れば、梢の密度が幾分低くなって、滲むような空の明るさがある。どうやら森がそこで切れているようだった。ならば、これまで己は森の深みをぐるぐる回っていただけで、すぐ傍らの開けた場所に気づかなかったらしい。その事実が、人の気配を間近に感じて安堵した星見夜少年には面映ゆかった。
「あー……星見夜だっけ」
 残された少年の方は、星見夜少年に目を留めたまま頭を掻いた。
「おれら今ちょっとたてこんでて、すぐ下山を手伝ってやれねえんだけど。少し付き合ってもらってもいいか?」
 その言葉はほとんど許可を求めるというよりも、確認だった。相手方にも余裕がないということだろうと星見夜少年は解釈して、
「あの。方角さえ教えてもらえれば、僕、一人で」
 星見夜の口許に、少年は指を突き付けた。意外なほど冷めた黒い眼差しが、上段から見下ろしている。ほんのいくつか年上とは思えないような、大人びた眼差しだった。
「一人で降りようとして――そんでまた迷うって? 次はおれたちも見つけらんねえかもしんないぜ。お前だって一度怖さは感じただろ? 夜の山を舐めるもんじゃない」
「それは……その……」
「納得?」
「しました」
 星見夜は気まずくも素直にうなずいた。相手は年少者を扱うことに慣れている様子だった。
 行くか、と道を示されたので、慌てて荷物を背負い直し、懐中電灯で足先を照らす。
「あの」
「ん?」
「お名前。聞いてもいいですか」
 相手は僅かに目を見開くようにした。思いがけないことを聞かれたような顔だった。
 いかにも年長らしい、大人びた物腰の少年だと思っていたけれど、そうしてみると彼は思いがけず幼く見えた。
「ああ、すまん。言ってなかったな、おれ梅ノ木。短い間だけどよろしく」
 こちらこそ、という星見夜少年の言葉に梅ノ木は浅く頷いて歩き始める。
「あ。そのな」
 ふと、思い出したような素振りで数歩先を歩く少年が振り返った。
「まー何ていうか、説明しづれえんだけど。おれら、ちと面妖な感じだから。まあ、そのつもりでいてくれね?」
「ん――はい?」
 梅ノ木はそれ以上の問いに応えることはなく、大股に先を進んでいった。言葉の意味を飲み込む猶予も与えられず、慌てて星見夜少年は梅ノ木の後を追いかける。



 梅ノ木に連れられて進んだ先は、星見夜少年が推測した通りに森が切れていて、駆け回れるような広さの平原になっていた。奥の方は崖になっているのか、視界から切れている。周囲はとっぷりと夜に落ちていたものの、それでも己の影が見えるほどの月明かりがあった。空の端に引っかかった月はまどかに肥えており、星見夜少年は今夜が満月であったことを思い出す。
 どうやら、彼らは広い尾根の裾の一部に出ているようだった。どこの辺りには人の手が入っているようで、丈のある野草が刈り取られて歩きやすいようになっている。森を出ていくらか進んだところには大判の防水シートが敷かれており、その上には古風な風呂敷包が寄せてあった。防水シートの一角には地面置きのランタンも設置してあって、幾つかの人影を明るく照らしている。彼らの傍らにはリヤカーが二台連ねられており、何らかの作業中であるらしかった。人の輪の中心には、先ほど出会ったばかりの少女がいる。彼女はすぐに星見夜少年たちに気づいて、こちらに大きく手を振ってくれた。梅ノ木はまっすぐに彼らの元に向かう。
「話は大体伝わってるんだよな? 迷子連れてきたぞ」
 梅ノ木は星見夜少年を場に押し出すようにした。
 人の輪の中、六人の眼差しが一気に押し寄せ、人見知りの気のない星見夜少年をして若干の気詰まりを感じさせる。
「星見夜って言うそうだ」
 ただ、星見夜少年にとってありがたかったのは、その視線が悪くても好奇心といったところで、総じて好意的なものだったことだろうか。
 まず最初に進み出たのは一行の中で一番小柄な少女だった。柔らかな髪をたゆたわせた彼女は、
「君が噂の星見夜くんか! 後小路だよ、宜しくねっ」
 くりくりとした瞳が明るく、いかにも歓迎する様子だった。態度の明朗さに人を安心させるところがあって、星見夜少年としても彼女がありがたい。
 その横にいた前髪を寄せた少女が、一つゆっくり瞬きする。左右を見て成程そういう順番か、と合点した顔になると、
「牧本、です」 
 次いで、額にタオルを巻いた大柄な少年が星見夜少年を一瞥した。低い声にいかにも不愛想な顔つきだったが、
「尾崎だ。まあ、災難だったな」
 視線の合わせ方が存外に穏やかで、星見夜少年は若干の意外を感じる。
 次はこの人か、と視線が移った先は、髪を結いあげたメガネの少女だった。彼女は片耳にイヤホンを差したまま古めかしい造りの通信機を持っている。彼女は星見夜少年を軽くねめつけるようにして、ごく端的に名乗った。
「俺は市瀬」
 少し猫背気味で、神経質そうな少年が目尻を伸ばすようにして笑う。
「空閑と呼んでくれて構わないよ」
 彼の発音はゆっくりとしていて聞き取りやすかった。笑ってみせると意外なほどの温和さが覗いたが、なぜか星見夜少年はうすら寒いものを感じたのを覚えている。
 六人の最後は、あの色のない髪をした少女だった。
「私は」
 ええと、と少女は言いよどんだ。なぜか考え込むような様子があった。
 星見夜少年が視線を合わせようとすると、さらに焦ったような様子になる。
 なんとも間の悪い空間を吹き飛ばしたのは後小路だった。訳知り顔の彼女は、いっぱいいっぱいの様子の少女の背後に機敏に回るとその双肩に勢いよく両手を置いて、
「チュン子ちゃんだよ!」
 異論を許さぬ極上の笑顔だった。
「チュン子ちゃん」
「……ッ、スズメですっ!!!」
 もう、とスズメと名乗った少女は口をとがらせて手を振り上げる真似をする。後小路は楽しげに嬌声を上げると、市瀬の後ろに隠れて顔だけを覗かせた。そうしてみれば、スズメにも、星見夜少年が普段教室で見る同年代の少女たちと同じかしましさがあった。
 盾にされた形のいま一人の少女は、通信機を両手でホールドしたまま嘆息して、
「後小路、盾にするなら尾崎辺りにしておけ。遮蔽性はあっちの方が上だ。俺を巻き込むな」
「市瀬、聞こえてっからな?」
 尾崎の言葉に、市瀬は視線だけ合わせて肩をすくめてみせた。
 言葉の一方で尾崎の声には険がなく、どうやらこれが彼らにとって友好的なコミュニケーションなのだと知れた。 
「他に二人いるけど、この場にいるのはこれで全員だな」
 まあその辺はおいおい、と梅ノ木が言うので星見夜少年は安堵した。この人数だけでも覚えるのは手一杯だ。
「んじゃ、俺はもう少し作業進めるわ。牧本ォ、さっき話した荷物の件、ちといいか?」
 尾崎がまず輪から離れ、手招きされた牧本が「あい、」と続く。
 梅ノ木は残った面々をぐるりと見渡すと、一人の少女に目を留めた。
「残りの作業に戻るとして……ああ、スズメー。星見夜のこと、お前に任せてもいっか? おれ最後まで面倒見てやれねーし」
 肩を叩かれたスズメが小動物めいた声を上げる。
「わ、私ですか?」
「嫌なん?」
「梅ノ木先輩、こういう時ケッコー意地悪な聞き方しますよね……嫌な訳ないじゃないですか。ていうか、本人の前でそういう言い方しないで下さい」
 梅ノ木は素知らぬ風ににやりと笑って、
「ほんじゃ決まりで。よろしく頼んだぜー」
「はいはい、頼まれました」
 目の前で、自分に関わることが流れるように決まっていくのを星見夜少年は目を丸くして見ていた。
「あの、本当に他意のないことだから気にしないでね?」
「そうなの、チュン子ちゃんはアドリブに弱いだけなのっ!」
 飛び出した後小路の肩を強く掴んで捕らえながら、スズメがフォローのような言葉を告げた。
「まあ……そうね、これから移動もあるから、ちょっとこっちの方についてきてくれるかしら」
 逆らい難い流れに背を押され、星見夜少年は少女二人とリヤカーの方へ歩き出した。どうも今夜はこんなことばかりだ。そして多分、これだけでも終わるまい。



 そのリヤカーは、奇妙な風体をしていた。
 まず、引手を同じ方向に向け、進行方向を合わせて前後に駐車されている。リヤカー間には青々としたクズの蔦が巻き付いて連結し、さらに頑丈そうな木釘が打ち込まれている。手を開いたようなクズの葉の集合の狭間からは、紫紺の花が咲きこぼれ、果実めいた芳香を漂わせていた。
 その二台のリヤカーの先、同様にクズの蔓で編まれた太い縄に繋がれているのは、耳先の黒いノウサギたちである。先に行くにつれ、枝分かれするようにほぐれた蔓の一本につき一匹のウサギが繋がれており、地に伏せて鼻先をうごめかせる様子はいかにも落ち着いている。いずれも一抱えはあるような肉付きの良いウサギ達は、今は与えられたウサギ用飼料を無心に食んでいた。
「なんですかこれ……、リヤカーに……ウサギ?」
「ふふふ、ただのリヤカーに見えるでしょ? 実はそうじゃないんだよ!」
 星見夜は先程の一件で学習していたので、まずスズメの顔を伺った。
 彼女は形の良い顎に指をあて、思案する素振りを見せた。星見夜の視線に、少し気を良くしたような顔だった。
「そうね。……確かにただのリヤカーとはいえないかも」
 ふむ、と素直に言葉を受け入れる星見夜に、ウサギの群れの世話をしていた尾崎が渋面を見せた。それは険というよりマイルドな呆れを含んだもので、
「後小路もほ……スズメもハードル上げんじゃねェ。リヤカーはリヤカーだ」
「それにどうしてウサギが繋いであるんですか?」
「ああ、それは……答えたくねェなあ……」
 尾崎が目をそらした。星見夜少年の眼差しから逃げるような素振りだった。ひょっこりと脇から顔を出した後小路が悪戯っぽく笑う。
「ふふっ! すぐに解るよ。もう少し荷物を積み込んだら出発するから、それまでのお楽しみだねっ」
「荷物?」
 スズメが防水シートの上に置かれた風呂敷包みの群れを示した。
「そこの風呂敷包みよ。牧本さん、もう荷物搬入始めちゃっても大丈夫かな?」
「あい。お願いできると」
 防水シートの上で荷物の点検をしていた牧本は、スズメに頷いた。どうやら彼女の作業がちょうど終わったところに居合わせたようだった。
「貴方も少し持ってもらっていいかしら。そこの包みを運んでもらえる?」
「は、はい」
 見れば、後小路はすでに風呂敷包みを抱えている。スズメの指示に従って、星見夜少年も包みを一つ抱え込んだ。少々重心がとりにくいが、少年の腕に丁度いい程度の重さではあった。誘導に従ってリヤカーと防水シートを数回往復する。どちらのリヤカーへ乗せるのかが既に決まっていると見えて、牧本がリヤカー脇で細かく指示をしてくれた。
 荷物を載せ終わると、後小路はひょいとリヤカーに飛び乗った。リヤカーが軋む音に星見夜少年は思わずひやりとしたが、意外にもリヤカー間の連結が緩む様子は見えなかった。この奇妙な構造は、見た目以上に頑丈に出来ているものらしい。後小路は平気な顔で手招きをし、
「君もほら、乗った乗った!」
「リヤカー……に?」
「リヤカーだけどただのリヤカーじゃないんだよっ! ねえザッキーさ―――んっ?」
 先頭にいたにもかかわらず突然振られた尾崎は、疲労感を見せて肩をすくめた。
「いや、リヤカーはただのリヤカーじゃねえかな……」
「んもー、ザッキーさんそういうノリいくないっ! ぼく泣いちゃうっ!」
「まあ、ともかく貴方も乗って頂戴な。荷物もそこに下ろして大丈夫だから」
 少女たちの言葉もかしましく、そんな騒ぎのうちにいつの間にか星見夜はリヤカーに乗りこまされている。彼が座り込んだ向かいではスズメが運搬中に緩んだ包みを結び直しており、さらにその隣では後小路がご機嫌な様子で風呂敷包みに縄を結えていた。見れば、リヤカー壁面には手作業で追加されたと思われるアンカーがある。アンカーからは数本のロープが伸びており、どうやらこれを利用して荷物を固定しているものらしかった。よくよく覗き込んでみれば、風呂敷包みの中身はいずれも重ねの弁当箱である。
「星見夜サン。これも奥において貰っていいですか」
 今度は数本のボトルを包んだ包みが送られてくる。弁当や水筒の類にしてはどうも場所と不似合いな古風さがあって、勢いで荷物の固定を手伝い始めた星見夜少年は内心で首をひねった。
 後小路が手元まで送られてきた荷物を確認し、小首をかしげた。思いがけず優雅な所作だった。
「まっきー、これで荷物は最後かなっ?」
「あい。梅サンに状況知らせてきますんで、すみませんがあとは適宜」
 気持ちの良い返事が返ってきたので、牧本は少女たちに全てを任せてその場を去る。



 牧本は、一度周囲を見渡してからウサギの群れの方へ歩いた。ウサギ一匹一匹の引き綱の様子を確認している尾崎を横目に、目的の人物の元を目指す。時間が許すなら尾崎の手伝いをしたかったのだが、恐らくその時間はあるまい。尾崎のウサギはどれも見事な姿をしていたから、もっと間近に見たい、出来たら世話もしてみたいと思っていたのだけど。
 求める相手は少し分かりにくいところにいた。高台、例によって古びた文庫本を開いている空閑の傍らで、梅ノ木は周囲を見下ろす様にしている。空閑の担当分の作業は早いうちに終わっていたし、そもそも彼の本仕事はこの後である。彼のこの読書はサボりではなく適切な休憩だ。一人で放っておくと崖から落ちかねない空閑の注意散漫(未だに治らないのだ!)も鑑みれば、このコンビでの配置がおそらく最適解だろう。
 ここ数年で見覚えたのだが、どうやら梅ノ木は少し高い処から見下ろすのが好きらしい。猫とは習性が違うだろうに面白い、と連想が走ったが、それはいつもの表情の奥に隠しておく。
 梅サン、と呼びかけると梅ノ木はすぐにこちらに気づいた。報告が来る時分だと了解していたのだろう、話の進みは早かった。
「リヤカーの方、積み込み終わったですよ。人増えた分についても問題ない」
「結局荷物減らしたん?」
「いや、そのままで。頑張ったとこで一つ二つだし、問題は座席面積なんだから、そのレベルで手荷物減らしたとこで大差ないって尾崎さんと結論した。お重系は空いちゃえばどーとでもなるし、なら一番人が増えるのは帰路だから、それまでにお重空ければ解決できる。最悪、一人くらいなら津田サンに任せられるからオッケー」
「重箱を空ければ、ねえ……つまりあれを全部食い切る必要があると。いけっかな?」
「夏野サンいるし大丈夫じゃないですか。あの人よく食べる」
 首を傾けて思案の素振りを見せた梅ノ木に、こともなげに牧本が言った。
「その扱いは酷くね?」
「客観的評価ですよ。市瀬さんとか空閑さんが好きなやつ」
「主観的評価だとどうなんの」
「あのひとたのしそうに食べるから、遠慮せずに好きなだけ食べるといいかなと」
「成程なあ……」
「何ですかその顔」
「いや、何となくだけど。夏野が聞いたら喜ぶんじゃないかと思って」
 はあ、と牧本は今一つ腑に落ちない様子で頷いた。梅ノ木の論にしては飛躍を感じる。風が吹けば桶屋が儲かる系の話だろうか。
 過程はともかくとして、それで彼が喜ぶならそれはそれでいいことだろうか、と思考は進む。観察の結果、笑みの種類とそれが表す意味にもいろいろあることが分かって来たのだが、やっぱりあの人は笑っているのが一番いい。
 だから牧本は、重々しく頷き、
「んじゃ今度言ってみます」
 歩き始めた梅ノ木がおう、と返し、なぜか空閑が興を惹かれた顔でこちらを見た。この人もよくわからない。多分別系統の桶屋だろう。
 そう判断すると、牧本は広場に向かう少年たちについて高台を下りてゆく。



 広場では、既に防水シートも片づけられていた。カンテラも赤いフィルムが巻かれた状態でリヤカーに固定され、出立が近いことを伺わせる。
 梅ノ木達がリヤカーに近づいていくと、丁度前列のリヤカーに腰かけている市瀬が通信機での打電を終えたところだった。
「ああ、いいところに来た」
 梅ノ木と空閑の接近に気づいた市瀬が顔を上げる。
「あちらの勢子が配置についたそうだ。津田・夏野組からも準備完了報告が来てる。二人には星見夜の件も連絡済みだ」
「そか、んじゃ後はこっち次第ってわけだな。尾崎ィ、そっちは?」
 ウサギの群れの最終点検を終えたらしい尾崎は、既にリヤカーの先頭に立っている。
 野草のなびきに目を向けた彼は、
「リヤカー自体の準備は終わってんぜ。風がちとよくねえが、まあ飛ぶのに支障はねェ」
「つーことは全配置問題なしだな。ぼちぼち、始めるかね」
 梅ノ木の視線はリヤカーに乗る少年少女たちを一度舐め、そして向かいの山の頂に向かっている。



 リヤカーにはぞくぞくと人が乗り込んでいた。尾崎が座す前列のリヤカーには、梅ノ木他、市瀬と空閑が乗り込んで、星見夜少年の座る後列のリヤカーには報告から戻ってきた牧本が収まった。地面置きされていたランタンは、赤いフィルムを巻かれた上でリヤカー一台に一個ずつ配備され、内部を照らしている。広場からはすっかり荷物が失せていて、旅立ち前特有の、心騒ぐような寂寞がそこにあった。
 各人の名前を呼ぶだけの点呼が終わる。
「これからどうするんですか、これ」
「はーい耐ショック姿勢!しがみついて黙るっ」
 口を開きかけた星見夜少年を遮るように、いかにも楽しげに後小路が号令した。
 後小路の声は余人に有無を言わせない。星見夜少年もまた、一行の行動に倣ってリヤカーに打たれたアンカーを握り、口を閉じた。
 尾崎がリヤカーの最前列に立ち、一同を見回す。改めて準備が整っていることを了解すると、彼は蔓を一度、大きく打ち鳴らした。
 ウサギ達が一斉に地に伏せる。
 そしてもう一度打ち鳴らしの音が響いた。
 それがトリガーだった。
 尻を持ち上げるようにして後ろ足が大きく大地を撥ね飛ばす、大地を蹴り飛ばす一音が全く一瞬に重なって、打ち出すような音として響く。
 跳躍で伸び切った体は、瞬間、尾をたなびかせて飛翔する異形の流れ星めいて、しかしその跫音<あのと>が聞こえた時にはすでに彼らの前足が地面につき、次の一蹴りのために後ろ足は強く引かれて身は引き絞られている。そして、次の一蹴りが。
 大地を蹴り、また大地を蹴る、そのしなやかな動作の連続を疾駆という。
 蔦が伸び切るまで数秒もかからなかった。初動の衝撃が連結リヤカーを揺らし、すぐにウサギの推進力に曳かれて連結リヤカーも走り出す。車輪が小石を噛みあるいは弾き、何度か派手に揺れた。星見夜少年がそのたびに震えるのとは対照的に、牧本たちは落ち着いた様子で荷物を抑える余裕すら見せ、取り乱した様子がない。リヤカーも、その連結が緩むような気配は微塵もなかった。
 連結リヤカーの荷重が追加されたのにもかかわらず、ウサギ達の勢いはいや増すばかりで、
 加速。
 加速。
 加速。
 リヤカーはたちまちのうちに崖を目前としていた。視界が狭くなる、息が詰まる、反射的に星見夜少年は目を瞑った。
 だが、脳裏に思わず描いた忌避すべき衝撃はいつまでたっても訪れず、その代わりとでもいうように、
「リフトオ――――――フ!」
 からからと笑う後小路の声も高らかに乗せ、頬を穏やかな風が撫ぜていく。
 星見夜少年は恐る恐る目を開いた。傍らではスズメが悪戯っぽく笑っている。彼女は笑みを崩さぬまま、ちょいちょいとリヤカーの外を指さしてみせた。か細い人差指に導かれるように視線を移す。
 眼下には莫大の夜が広がっていた。
 月光でリヤカーの影が落ちるのか、下方から森の生き物が薄く騒ぐ気配がある。
 行く手彼方、森を越え、削ったような灰色のラインは峠の道路か、ぽつぽつと見える光は沿道の街灯か。鏡のように薄明るく下る筋は谷川かもしれない。視線をなお水平に上げてゆけば、遠く、零したような光屑<こうさい>は町の明かりの一つ一つ。
 山頂から見下ろしたことのある風景が、場所と時を変えて広がっていた。
「ただのリヤカーじゃなかったでしょう?」
「おれらは面妖だってちゃんと教えておいたしな?」
 スズメのなぜか得意げな声、前のリヤカーからは梅ノ木がふくみ笑う声が流れてきたが、星見夜少年の耳には届いていなかった。あるいはすぐ後ろで、街を眺めているらしい後小路と牧本のやり取りすら。
 視線の留まる隙を与えぬ速度でリヤカーは疾走した。天駆けるウサギたちの推進を得て、リヤカーの車輪は風を確かに踏んで回転する。
 星見夜少年はただただ見ていた。
 夏の夜空、南東に昇り初めた満月が薄く山肌を照らしていた。風の中に見た街の光には見覚えというものが失せ、山のくろぐろとした輪郭に何もかもが抱かれていた。
 全身が総毛立つ感覚、視界を流れゆく夜の全ては夢幻じみて、握りしめたリヤカーの縁の、少しささくれたような硬さだけがリアルだった。
 平成三十六年八月二十二日、霊境の夜は始まったばかりである。




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