平成三十六年の "夜の騎行" < ワイルドハント >

序章





 薄闇に浮かび上がる白い指が、年経のブナの滑らかな幹にチョークを塗りこんだ。指が触れた拍子に、乾いた地衣類が砂めいて落ちる。標識の結果に満足してちびた白チョークをポケットにしまい込むと、ザックを背負った少年はブナの木を背にした。痩せた小柄な体は、夜の森の中では一際小さなものとみえる。夜はまだ浅く、大気には夕暮れの忘れ形見のような熱が残っている。
 地面に突き立てていた懐中電灯を拾い上げれば、一条の白光が腐葉土の地面を差した。それはこの夜の中において、いかにも頼りなかった。右に左にと行く手を懐中電灯で照らしながら、少年はぎこちなく道を探して歩き始める。素直な輪郭の、頬の丸みがまだあどけなかった。普段は快活に表情を変えるだろう顔には、今は疲労が色濃くこびりついている。ごく淡い色の髪が汗で額に張り付いているが、もう彼は拭うこともしない。すでに日は嶺に隠れていた。ただでさえ空を覆う陰樹林の中で、少年の中には心細さだけが募っている。
 この夏夜の山中、彼は単独行であった。
 そもそもが、深く山に分け入るような恰好ではない。汗みずくの体を包んでいるのは、長袖であるのが取り柄と言った風のシャツとズボン。背負ったザックも軽装で、彼の主目的である撮影機器を除けば、水筒と行動食に出来る菓子の類、空になった弁当箱、他は虫よけスプレーなど、半日の野歩きに必要な雑多なもの。その程度しか入っていない。日が落ちた山中を歩くには、それが人里近い場所であるにしろ、心もとないものだった。
 ふと立ち止まる。汗で蒸れた腕時計の革バンドをずらしながら、彼は文字盤に目をやった。中学への入学祝に買ってもらった腕時計は、やはり先ほどから変わらぬ挙動を示している。夜光塗料の塗られた三本の細針は、時に早く時に遅くと不規則な速度で回転しており、異様な時刻を示している。水晶時計にあるまじきこの事象は、彼が迷子を自覚した時にすでに発生していたものだった。
 思い返されるのは家を出る前の母との会話だった。
「お盆に山に入るなんて」
 山に行くと告げると、そんなふうに母は眉をひそめて零した。虫取りの類が目的ではないと説明してはいたものの、夏のこの時期に山へ入ることに母は良い顔をしない。彼の家は少々特殊なものだったから、母が人目をはばかって古い謂れに過敏になることを理解できる年齢にはなっていた。少年自身は、母のそれをナンセンスだと考えていたけれど。
 出がけにそんな衝突はあったものの、少年としては、ようやく手に馴染んできた愛機でこの時期を切り取れないことがもったいないと思えて仕方がなかったのだ(加えて、中学一年生の矜持、つまりは母親の言葉一つで計画を取りやめるのも子供っぽくて嫌だった、という反発が存在したことも否定はすまい)。少年は今年初めて自分のカメラを手にした。それも、数年分のお年玉他各種お祝い金の積み重ね、そういったお金を費やすことについて難色を示す両親への説得、それなりの紆余曲折を経て手にした憧れのデジカメ一眼入門機である。先月の夏祭りの始末も終わり、家の手伝いも落ち着いてきた。学校の課題だってそれなりに目鼻がついてきていて、彼の夏休みには余裕があった。新生写真部(顧問となった老教師の証言によれば、およそ10年ぶりの復活である)の新入部員としては、秋の文化祭に向けて自信を持てる作品を作っておきたかったのだ。カメラに触れ始めて一年足らずの彼が主な被写体とするのは山野草だった。物心ついて以来、家の本棚で少なくない面積を占めていた古い理科図鑑をめくって育った少年は今、植物をその主たる興味の先として定めていた。
 朝から夢中になって写真を撮った。
 梢から落ちる光を流したような林中のせせらぎ、水に差す緑の鮮やかさ。
 茶色一辺倒のような腐葉土と切り株、そこに萌えたひこばえの意外なほどの青さ。
 明るい川辺のヤブカンゾウ、朱に鋭い輪郭のキツネノカミソリ、山の入りに佇むタカサゴユリやササユリの清楚、道端で慎ましく頭を下げるキツネノテブクロ。内気にささやかな花弁を伸ばすイヌゴマの薄紫、時期も終わるだろうヘビイチゴの赤色が、ころりと足元を彩るようなのも愛らしかった。
 夏は盛り、生命は繁茂に勢いづいて鮮やかである。
 その活力に息を呑んでレンズを向けていれば、あっという間に日が傾いていた。慌てて下山の準備を始めた彼が己の周囲を取り巻く異変に気付くまでさして時間はかからず、そして今、こうして独り森の中を彷徨い歩いているのだった。
 馴染みのあるものを探して慎重に進む懐中電灯の光は、やがて行く手に一本のブナの木を捉えた。少年は予感に眉をひそめた。白光がブナの輪郭を舐め、木肌に記されたチョークの標識を明らかにする。
 標識はごく新しいもので、模様にも見覚えがあった。
 そこに佇むのは確かに背にしてきたはずのあのブナだったのだ。
「……確かにまっすぐ歩いてきたはずなのに」
 環形彷徨<リング・ワンダリング>という言葉が脳裏をかすめた。人間は直線的に移動する際、視覚による補正を強く受けながら歩行している。そのため、視界の悪い環境で移動する場合は、視覚による補正が効かず、普段は意識されない体の癖に従って動いてしまうために、無意識のうちに輪を描くように歩いてしまう、その事象を示す言葉である。環形彷徨はしばしば遭難の一因となるものであるから、本来は視界が良好になるまで動かないのが望ましい。少年も、その知識を一応は持っていはした。
 だが、これまで庭のように歩き回ってきた山の中での異変であること、越夜を考えてもいない軽装であることが、彼を自覚のない焦りに追い込み、立ち止まることを受け入れられない心理状態としていたのだった。
 せめて星が見えれば、と天上を見上げたところで、空の紺色は梢の影に蝕まれてろくに見通せない。夜に沈む山の中で、懐中電灯の光だけが白く切り取られたようだった。
 周囲にはしんしんと虫の気配が満ちている。山は昼の顔とはうってかわって異境めいていた。
 だからだろう。家を出る前、最後に聞いた母の言葉が頭をよぎった。
「お盆なのよ。帰ってきている人だっているかもしれないでしょう」
 心細さはおぼろげな恐れを呼び、恐れは古い噂話という実体をもって立ち現れる。
 この山では、十年前に沢で溺死した中学生がいたという。そんな話を少年は伝え聞いたことがある。流れの早い谷川に足を取られた後、下流の溜まりに浮かんでいたという死者の噂は、十年という時間の遠さと、"山狩りをした親戚が確かに見たんだ"という枕によって、もはや怪談めいていた。
 そうでなくとも、山や川での事故については終業式でも繰り返し注意喚起が行われてはいたものの、休暇を前にした子供がそれを我が事として受けとめるはずもない。少年もまた、その大多数から洩れなかった。死というものは、それだけ彼らからは遠いものであったから。
 だが、今やひたひたと彼の足元を浸す冷たいものこそ、死の気配のさざなみであった。
 それが大げさに過ぎる怖れだったのかは定かならぬことである。だが、この異境の如き夜が人の界ではないということだけは確かだった。
 ……いつしかブナの根元に座り込んでしまっていた少年は、ふと顔を上げた。つけっぱなしの懐中電灯は握りしめたまま、足元を儚く照らしている。
 首だけで周囲を見渡す。耳をそばだてる。
 虫の声でもなく、獣が草葉を揺らすのでもなく、風が吹き抜けるのでもなく。そのいずれとも違う音が聞こえた気がしたのだ。
「――…………」
 もう一度。
 確かに聞こえた。
 少年は目を見開く。息を詰め、全神経を耳に集中させる。
 さやさやとなる枝葉、虫の声、そして、そして。
「――すみません、ちょっと待ってください。誰か紛れ込んでいるみたい」
「まじか」
 幻聴ではない。確かに聞こえたそれは、少女の細い声だった。それにはもう一つ、低い少年の声も交じっていただろうか。
 そこまで認識した途端、少年は弾かれたように立ち上がった。懐中電灯を大きく振って己の位置を示す。
「…おうい、おうい!こっちです!道に迷って困っています!助けてください!」
 声の聞こえた方、遠く光が揺れるのが見えた。安堵に胸が高鳴るのを自覚しながら、少年は応じるように懐中電灯を振り、上ずった声を張り上げる。
 光は確かにこちらを認識したようで、それはじわじわと近づいてきた。逆光で紛れていたが、どうやら身長差のある二人組らしい。
 やがて枝を踏む音とともに、相手方の懐中電灯が少年を照らした。眩しさに目を細めつつ、少年は若い男声を聴いた。
「お、いたいた。一人か?」
 光が外れる。相手の言葉に頷き返しながら少年は何度か目を瞬かせながら目を慣らし直した。
 二人組のうち、声を掛けた一人は細身の少年だった。
 中学に上がったばかりの少年からすると、随分と年長のように見えた。記憶通りの僅かなデザインの違いが学生服にあったから、高等部の生徒なのだろうと知れる。
 いま一人は少女。懐中電灯を両手で握りしめている。
 顎で切りそろえられた淡い髪に清潔感があった。男子高校生の後ろから、息を呑んだような顔でこちらを見ている。
 意外なことに、その二つの人影は、どちらも少年の通う学園の制服を纏っていた。彼らの装いの何かが見知ったものとは違うような気もしたけれど、それは些細な引っ掛かりだった。何せ、この山の中で制服に革靴である。その方がよっぽど奇妙だ。
「俺……ぼくは、星見夜と言います。写真撮影に来て、帰る途中迷ったみたいで、」
 色のない髪をした少女、その見開いた眼の意味を測りかねながら、少年――この町唯一の神社の跡取り息子は、そんなふうに己の名を告げた。




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