彼岸

 炊きあがりの通知音に、牧本は背後を振り返った。手元の調理台には、既にすりこぎやさらしのふきんが用意済みだ。
 年季の入った家庭用炊飯器の蓋を開ける。湯気に目を凝らせば、輪郭が際立って滑らかに、粒が立ったように炊きあがっており、牧本はその出来に満足した。
 内釜ごと外し、調理台に運ぶ。濡らしたふきんで持ち手を包んでも、それでも炊き立ての釜は熱を惜しまない。
 調理台に置こうとして、思わず放り出してしまった。今の牧本の手には重いこともあるけれど、熱さにこらえきれなかったのが強い。
 焦ってしまっただろうか、と思う。
 今年は疲れて寝入ってしまったりなどして、人が来る予定があるのに、こんな時間になってしまった。
 以前はもっと精力的に動けた気がするけれど、近年はとみに体力が失せてしまっている気がする。周囲はそんなものなのだというけれど、牧本としては少し口惜しい。
「すごい音聞こえたけど、大丈夫?」
 懐かしい声が聞こえたのはそんな時だった。
 自分の言葉遣いだって、もうあの頃とは違うというのに、いつまでも変わらない、少年そのもののような声は、
「夏野サン、もう来たんですか」
 牧本は振り返らない。
 数年前からのことではあるけれど、この人が来るのにもだいぶ慣れてしまった。
 手元から、炊きあがったもち米特有の甘い匂いが立ちのぼる。
 背後に佇む気配は一人きりで、すりこぎでもち米を潰しながら牧本は言葉を重ねた。
「梅サンはどうしました」
 ああ、と夏野が応じた。
「今年は東雲が来たからね。梅ノ木は来ないよ」
「ですか」
「うん」
 だから今年は私だけ、と夏野の声が続いて、台所の扉にもたれたような気配があった。
 牧本はその声の中に夏野の寂しさを見た。あの頃ならば気付かなかったかもしれない。
 だが、夏野は彼女が言葉を放つ前にねえ、と声を上げた。
「毎年よく作るよね」
「何をです」
「おはぎ」
「毎年、食べに来る人がいますからねえ」
 それに、
「これを作ってると、昔のことを思い出しますし」
 どですか。
 尋ねてみると、夏野は少し考えたようだった。
 その間に牧本は手元の釜を見下ろした。
 あまり潰しすぎてもよくない。つぶが適度に残っているのを確かめて、こんどは木べらを手に取った。
 牧本の手元では、はんごろしのもち米が俵状に成型されてゆく。
 作業御進めていくと、背後から、あ、という声がする。どうやら答えにたどり着いたようだった。
「――圧縮おにぎり?」
 ええ、と応じると 背後の空気が確かにほころびた。
「よく覚えてるなあ」
「忘れませんよ。あの時はなかなか面白い経験でした」
 そっか、と応じた声は牧本の耳に馴染んだ朗らかさを取り戻していた。
 安堵の気持ちと、かわいらしい、という気持ちがほぼ等分に胸を満たす。
 もち米を全て整形しきったので、内釜は水を張って流しに降ろした。木べらも一緒に漬けてしまう。
 冷蔵庫から、冷やしておいた粒あんのタッパーを取り出した。匙ですくってみる。柔らかく仕上げ過ぎたかと思ったが、冷やしてみればどうして悪くない。
 背後から夏野が覗き込む気配があった。
「そこまできたらあとは包むだけ?」
「ですよ。ラップを使うと意外と楽ちんで」
 ふうん、と肩越しに手元を覗き込んでくる気配があった。
 手元にラップを広げ、その上に匙で切るようにして粒あんを平らに引き延ばす。
 少しくぼませた上にもち米の俵を安置して、ラップで空気を抜きながら整形してやれば、
「ほら」
「綺麗にできるねえ」
「塩水で濡らした手で握るって教わったりもしましたけど。やっぱりこれが作りやすいので」
 そのまま数をこなしてゆけば、おはぎの群れが伸びてゆく。
 以前は大きさがまちまちになることもあったけれど、ここ数年で腕前も上達した。
 あの頃の、数学好きな先輩だったら目を輝かせて平均値だの統計学だのと口にしたろうか、そう考えると懐かしさで心が和らいだ。
 おはぎを大皿に乗せながら、牧本は胸の中にずっと温めていた疑問を口にすることにする。
「あのね。夏野サン」
「なあに?」
 背後の声は、変わり気もない。
「こういう時に夏野サンが来るようになってだいぶたちますけど。そろそろ、ですか」
 一瞬の途絶が生まれた。
 夏野が身をこわばらせたのを確かに知覚する。
 少しだけ肌寒い、牧本はそう思った。
 眼差しは皿に並べたおはぎの表面をなぞりながらも、体の全てはいまや夏野を意識している。
「……君はいつも、答えづらいことを直截に聞くよね」
 ようやく応じた夏野の声には、苦い笑みがあった。
 それでいて、苦みの底にあるものは、どこか嬉しそうでもあった。
 君は変わらないね、そう告げる声が優しく牧本の髪を撫でた。
 今更のように面映ゆい気持ちが湧く。もう子供でもないのに、少女めいた感情が動くのが、自分でも意外だった。
「こちらも、考えなきゃいけないことがありますし」
「だろうね」
「です」
 夏野が言葉を選ぶ。
 そろそろと夜の闇が足元を浸し始めていることに、牧本はようやく気付いた。けれど、体は夏野の言葉を待って動かない。
 夏野がようやく口を開く。
「どうしようかな、とは思うんだよ。東雲の時もそうだったって聞いているしね。でも、でもさあ」
 切り出された声には慈しみがあったから、牧本にも促しやすかった。
 今の夏野の顔が見られないことを少し残念に思う。
「でも?」
 背後から手が伸びた。
 うすく闇の中で光るような、少年の腕。
 あの日から変わることのない。
 その手は牧本の仕立てたおはぎの一つに触れ、そして、
 持ち上げることもなく透けて、再び牧本の背後へと戻る。
「――私ね、もう少しだけでいいから、このおはぎが食べたいんだ。君が作ってくれるやつを」
「……ですか」
「だからさ」
 耳元に何か柔らかく触れるものを感じた。
 それは冷たくもあり、けれど、温かかった。
「また次の春に、夏に、秋に。会いに来るよ、牧本サン。
 今日の私の時間はここまでみたいだけど」
 囁かれた言葉に、牧本は振り返る。
 だが、そこには独り住まいの部屋に夜が沈むのみだった。
 夏野サン。
 牧本の呟きに返事はない。
 ただ、見回す目が、ほの白いものを捉えた。
「……あ」
 月光めいて浮かぶ白は、一輪挿しに活けたヒガンバナである。
 牧本の用意した記憶のない花だった。
 外からは、車の乗りつける音がする。


 玄関のチャイムが鳴る。
 幼児のはしゃいだ声と、挨拶に出る女の声に、牧本は姪夫婦と子供の到着を知った。
 険のない声で明かりをつけてゆく姪と、走り寄る又甥を迎えながら、牧本は少女時代の思い出をそっと胸の裡に仕舞いこんだ。
 この彼岸、牧本の年はすでに七十を回っている。
 

 夏の日は遠く、人生の秋は深まり、生者だけが年を重ねる。
 だが、死者が忘れられることもない。


<END>


初出:2015/10/06
執筆BGM:山崎まさよし「メヌエット」
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