獣舎の朝。牧本は日常の一環として獣たちの世話を進めていた。餌やり、水替え、排泄物の掃除と、まずは軽く一サイクル。まだ夏の盛りというわけでもないが、作業を進めてゆけば汗ばみもある。一段落したところでこめかみから垂れてきた汗をぬぐった。
すると。
牧本サン牧本サン、と呼ぶ声がする。誰かが入ってきた気配もないと思ったのだけど、と牧本は辺りを見回し、声のした方と思われる窓際を振り返った。
やはり誰もいない。
爬虫類のケージが静かに佇んでいるだけだ。
牧本は少し首をかしげた。
幻聴かな、と思う。あのひとは妙にリズミカルに人の名前を呼ぶので、きっとそれが耳に残ってしまったのだろう。
そう結論付けて牧本は作業に戻る。朝のうちにすませてしまいたいことはたくさんある。
すると。
「牧本サーン!牧本サーン!」
幻聴が大きくなった。
これはいかん、と牧本は思う。
「その様子、聞こえてない振りしてるやつだよね!こっちこっち!」
どうやら幻聴ではないらしかった。
部屋の外からだろうか、それにしては姿も見えない。
ともあれ、牧本は改めて窓辺に歩み寄った。
声を追っていけば、
「ここだよー」
見覚えのないニシキブロンズヘビが、聞き覚えのある声でケージの中にいた。
背が茶色で腹が黄色というベースに、メタリックなコバルトブルーが走り、背筋は深緋を帯びつつも、腹に向かう鱗には鮮やかなスカイブルーが刻まれる。頭上から見下ろせば木漏れ日めいた光を散らしたようでもあり、真横から見れば動くたびに鮮烈な青がちらつく。
総じてごくスレンダーな体はいかにも機敏な様子で、すらりとした口元は穏やかな銅がかった鈍色。丸く大きい目は、確かにその人を連想させるところがあった。
ちろりと出し入れしている舌は、その根元が蠱惑的なまでに深い紅色をしていて、大人びたような様子がある。
ともあれこの姿が、現在の夏野蜻蛉という人のよりましであるようだった。
「――どうしたですかそれ」
ヘビと何故会話できるのだろう、という疑問は浮かばなかった。
夏野がこんなふうに人間の姿をかなぐり捨てている辺りで、たぶん今ここは何でもアリだ。
牧本の諦観と思考停止に満ちた判断をよそに、ナツノニシキブロンズヘビは体をうねらせた。
微妙なループを描きながら頭部が後ろに退いて、
「きぶんてんかん!」
「なんかブルーベリーサイズの脳みそみたいな発言になってますよ今」
「そう?」
だーしーてー、と体をくねらせながら言うので、仕方なくケージのロックを解除する。
手を差し伸べると、慣れた風情で手指を伝い、腕を昇り、
「あ、こら」
「アスレチック!」
自慢げな声が楽しそうなので、頭まで登られようが、まあいいような気がした。
音もなく牧本の体の上を滑って行く体がちかりちかりと鮮やかな青を閃かせるのは、見ていて悪い気持ちはしなかったので。
「…………」
朝五時三十五分。
五分三十秒の寝過ごし。
牧本は布団から上半身を起き上がらせて眉をひそめていた。
夢の内容を思い出す。
まだ記憶に鮮やかなそれは、牧本をして困惑に沈めるに充分であった。
思考を寝起きの懸濁と夢の困惑に沈めたまま、牧本は勉強机の上を見る。
そこには、昨日届いたばかりの爬虫類専門誌、ヘビ特集。その巻頭を飾るのは、
「……ははあ」
ニシキブロンズヘビだった。
「夏野サン夏野サン」
「なーに?」
「ちょっと触っていいですか」
「!?!?!???」
その日の午後、畜舎裏に遊びに来た当人に、つい手足の有無を確認してしまったのは、まあ、容赦してほしい。
<END>
初稿:8/8/2015