春擬い



 薄闇の中、春は爛漫だった。
 人気の薄い山野、春先の黄昏闇が薄く冷えて漂っている。空は春霞にほのかに淀み、朦朧とした夜がそこにある。だが、その空から垂れこめる夜気すら押しのけるように、大気を明らめるものがあった。
 桜である。
 見事な古木であった。幹は荒々しくねじれ、己の根元へ手を伸べるように張った枝は自重に耐えかねたかのよう。節くれだったその小枝の一端に至るまで、樹木には花の精気が充ち満ちて、五弁の花が小さな毬玉のようになって咲きこぼれていた。
 満開。
 冷やかな夜気を押しのけ薄曇りの空として掲げる梢の花々は、墨染めいて色彩が淡い。
 豪奢な大樹の元には一つ、ごく小柄な影があった。
 古風な緋毛氈を引き伸べた上、傍らに小ぶりの水筒と巾着袋を一つ。手元のスマートフォンを覗き込み、時たまに指先で操作している、それは一人の少女だった。
 編み目も生真面目な三つ編みを背中に置き、幾分古びたセーラー服は、それでいて折り目も正しく、スカーフに乱れもほつれもない。緋毛氈の外には、几帳面に爪先を揃えた黒のローファーが一組。
 つまらなげにスマートフォンをいじる横顔は頬から顎の輪郭が柔らかい。セーラー服でさえなければ、大人びた小学生で通ったかもしれなかった。
 彼女はふとスマートフォンを膝に置くと、傍らの魔法瓶を取り上げた。カップを取り外し、魔法瓶から茶を注ぐ。カップを満たすにつれ湯気が熱気と共に広がった。固く栓を締め直すと再び魔法瓶を傍らに置き、両手で抱え込むようにしてカップを取る。
 風もないのに、はらりとひとひらの花弁が舞い降りて、カップの水面に浮かんだ。
 少女が素朴な印象の眉をひそめた。
 茶に浮いた花弁のためではない。
 花弁と共に振り落ちてきた、一つの声の故だった。
「清水は花を見ないのかい」
 それは若い男の声をしていた。穏やかな声は低く、だが幾分神経質な響きがあった。
「桜嫌いなんです」
 清水と呼ばれた少女の返答は端的だった。
 断ち切るような鋭さを伴う声に、男の声はそれでも僅かに笑みを含んで絡みついた。
「こんなに綺麗に色づいているのに? ご覧よ、満開だ」
「すぐ散って汚くなりますよ」
「ねえ清水――知っているかい」
「知りません」
 遮断。
 少女の返事は即時に行われた。
 だが、男の声は楽しげに言葉を続ける。
「――桜の木の下には死体が埋まっているんだよ」
「悪趣味ですね」
「だから、この木の下にも」
「なんですかそれ、」
 清水は目を細めた。敵意そのものの冷徹さが、感情とは不釣り合いにいとけない顔にあらわになった。
「清水。君はこの木の下に、何を埋めたんだい?」
「何も埋まってなんかいやしませんよ、何も、誰も、――」
 風もないのに梢がざわめいた。それは笑い声に似ていた。
 こぼれ桜。
 さやさやと花弁が舞い落ちる、少女の傍らに。少女の髪に。膝に。
「市瀬、梅ノ木、尾崎――」
声は歌うように馴染みのある名前を虚空に連ねた。
 それらの名前を予測していなかったわけではない。
 だが、それでもなお、清水の息はひと時止まった。
 少女の素振りに気づかぬような素振りで声は続いた。猫がなぶるように優しかった。
「清水、ご覧よ。桜がこんなにも。鮮やかだ。僕らの血を吸って」
 樹上の気配は一つだった。
 それが増える。
 二つ。三つ。
 ……四つ。
 いる。
 そこにいる。
 たおやかに足を閉じて腰かけた少女、その几帳面に艶やかなローファーの爪先。
 組んだ足、姿勢悪く木に体を寄り添わせた細身の少年の。
 武骨に幹へ体を添わせた、丈高い少年の。
 冷たく氷を落としたような、気配。
 それを見るのは彼女の本来の目ではなかった。彼女に配された"能力"を、彼女の意志をこじ開けるようにして、樹上の彼らが視界に映る。見える。見させられている。彼岸に眠る筈の彼らの姿を。
 清水の眦が、誤差範囲を僅かに越えるレベルで揺れた。
「みんな、いるよ。僕だけではなくて、君が埋めた皆が」
 それを察したように、声が囁いた。
 声はもはや一つではない。
 それは、何人もの声として重なり聞こえるそれらは、いずれもかつて、確かに聞いた声だった。
 遠い昔、学校の校舎で。
 校舎の裏手の畜舎で。
 埃っぽい、午後の光が差し込む教室で。
 確かにそこにいた、あの頃の彼らの声で。
 言葉こそ違っていても、その声は皆同じことを言う。
「君もこちらにおいで」
「そこにいては寂しいだろう」
「ここには皆いるよ」
 ――あの日死んだ皆が。
 ――君の殺した皆が。
 風の気配もなく桜の花弁が降る。
 少女の頬に触れ伝い落ちた花弁は、いかにも馴れ馴れしげな指先めいて。
 清水の編み髪に、桜の花弁が絡んだ。
 なおも花弁は降る。
 降りしきる。
 桜花乱雪。
 清水の視界を覆い尽くす、それは春の姿をした闇だった。
 清水は目を瞑っていた。だが、最早そうしていてすら、春は少女の知覚を蹂躙した。おびただしい量の花弁は既に清水の肉体をその内に埋葬し、四肢はいつの間にか地に伏せて、手足の感覚は失せていた。制御を奪われた視覚には、懐かしく、だからこそ清水が見てはいけない四人の少年少女の姿が。耳には、彼らが各々優しく誘う声が。
「――、……――」
 食い縛った清水の口の間から、小さく言葉が溢れた。それもすぐに桜に貪られて消える。
「ここは寂しい、と。そちらに行きたい、と。そう言うだけで事足りるんだよ、清水」
 樹上の声は、導き手めいた優しさでうそぶいた。
「――は……に……――」
「言ってごらん清水」
 桜の闇の中に笑みが満ちた。
 桜の嵐が一瞬静まり返った。
 花弁から僅かに露わになった口元で、わななくように清水の唇が動いた。
 姿を確と持たない何者かが、視覚を奪われた少女の顔を覗き込む、そんな気配があった。
「――そっちには絶対にいきませんよだばーか!」
 赫然<かくぜん>たる怒号が、放蕩な桜花を吹き散らした。
 少女を覆っていた花弁は四方へと吹き飛び、桜樹すら怯えるように梢をざわめかせる。
 苛烈な感情が血液と共に体を巡る。清水の四肢には力が戻り、セーラー服の少女は樹を背にもはや凛然と立っていた。その体からは全ての桜の花弁が剥がれ落ち、もはや近づくことも叶わない。
 首筋を白く覗かせる髪はごく短く、今この時の彼女の姿を、清水は正しく顕している。彼女の髪はあの時に断ち切られて、それきりもう伸びることはなかったので。
 閉じていた目を、清水はゆっくりと開いた。
 制御下に取り戻した視界には、桜の人影はなかった。ただ、空中で張り付けられたように震える花弁の群れが、清水を遠巻きにしている。清水を背から取り囲むように、花弁は半球の檻として形成されている。それは桜樹によるほど厚く、遠ざかるほど薄く形成されていた。
 桜樹を背にした清水は頓着せず、その眼差しの先に誰かを確かに捉えたように前を見据えていた。
 表情も冷厳に、清水は見ていた。
 遠い過去の姿を。
 桜の木に宿る者たちではなく、遠い夏、最期の一日を行き別れた者たちの姿を。
 桜を背に、清水は口を開いた。
「あの時、嘘をつきましたよね、」
 ――なんで皆を死なせたんですか。
 清水は告げる。
 胸に言葉を満たしながら、過去を弾劾する言葉を紡ぎ出す。
「あの時、何にも言ってくれなかったですよね、」
 ――なんで私に殺させたんですか。
 水音。縄の手ごたえ。骸。
 その場にあった全ての五感を、清水は今なお己の中に保っている。
 たとえあの日から何年も過ぎたのだとしても。
 あの日からずっと、孤独を友として。
 同じ日を共有した最後の相手も送り。
 一人で。
 独りで。
「――……だから絶対に、そっちにはいかないです、」
 ――ここは寂しいですよ。
 清水が言葉を重ねるたびに、空中に停留する花弁は清水から退けられてゆく。不可視の圧に押され、じわりと花弁の包囲は緩みつつあった。
 胸の中の痛みを、清水は無視する。
 そこに蓋をすることにはもう慣れた。
 慣れることができる、清水は己をそのように定義してきた。
「絶対に許さないですよ、」
 ――だって、もう誰もここにいないんですよ。
 胸の軋みを無視する。
 無視できねばならない。
「私は一人だってやっていけますし、」
 ――……私だって、叶うなら、一人じゃなくて、
 胸の奥で鎌首をもたげた言葉が蠢く。
 押さえつける力が足りない。
 それを思ってはいけない。許してはいけない。
「だから絶対にそちらにはいかないです」
 ――……本当は、
 胸の奥底で、封じられた言葉がわななく。
 押さえつける清水の内側から、その言葉が何度も叩く。
 もう一つの感情の濁流が満ちてゆく。堰に迫る。
「私は――、」
 言葉が、ふと切れた。
 奥歯を噛みしめ、目を細めて歪んだ視界を。
 桜の花弁が一つ二つ、横切った。


 ――弓鳴りを一つ、清水は確かに聞いたように思った。


 清水はふと目を覚ました。
 己が地べたに座り込んでいることをまずぼんやりと知覚する。
 背にはごつごつと尖りを含んだものが当たっており、手を後ろに回して探ってみれば、それは木肌と知れた。
 幹に手をかけて立ち上がる。黒いローファーを履いたままの足に木肌の後が残っていて、動作に応じて痛痒が走った。
 スカートから汚れを払って立ち上がった足元には魔法瓶が転がっている。拾い上げれば、中身がたぷんと揺れる手ごたえがあった。
 清水は背後を顧みる。彼女が背を預けていたのは、ごく古い桜の木だった。
 見事な老木である。
 幹は荒々しくねじれ、己の根元へ手を伸べるように張った枝は自重に耐えかねたかのように。
 花はない。
 枝はいずれも硬く、くすんだ色に己を硬めていた。
 それも道理である。季節は冬、花のほころぶ季節は遠く、枝に若芽が萌えるまで僅かならぬ時間を要する。
 春ではなかった。
 薄暗がりは急に冷え込んだようだった。
 薄く倦怠を頭に引きずりながら、清水は桜の正面へ視線を転じた。
 そこにぼんやりと明かりがあった。
 彼我の距離は数メートル、平らかな土の上に緋毛氈が引かれ、和蝋燭を立てた青銅の手燭がゆらゆらと灯火を揺らしていた。緋毛氈の上には臙脂の風呂敷包みが一つ。さらに朱塗りの重箱が一組、酒器のしつらえと共に置かれている。そんな野宴支度の傍らに、黄と柑子を合わせた直垂姿が弓を携えて物憂げな様子で立っていた。
 現代においてそれは異様な出で立ちではあったが、清水はそれが誰であるかを理解している。
 彼こそ、今回の元凶――ではないにしろ、厄介ごとを清水へとあてがった張本人であった。
「与一さん」
 足音を消さぬようにして近づき、声を掛ける。
 果たして、遠坂与一、稲荷神の眷属に名を連ねる狐神は、ゆったりとした身ごなしで清水へと振り向いた。
 塗籠藤<ぬりごめどう>の弓を左手に携え、さらに腕からを吊っている。
「気付いたか」
 黄金の髪を素朴に結った細面の若武者は、じろりと清水をねめつけた。
 与一の無遠慮な視線は上下に清水を眺め渡して、怪我の様子がないことを見て取ると一つ頷いた。
「始末は無事に済んだようだな、重畳重畳」
「あれを始末、と言えるのならですけど」
 また謀りましたね、という言葉は清水の口の中だけで転がされた。
 清水はようやくいろんなことを思い出していた。
 稲荷神の社殿で耳にした樹怪の噂。
 与一に命じられた山中への“使い”。
 これらを総じて見るに、今回もまた、与一の元に身を寄せて以来彼から差配される“人にしかできぬ些細な手助け”の一端であることは間違いがなかった。
 清水の眼差しをよそに、与一は機嫌よく手を広げ、
「いやいやどうして、悪くはないぞ。この人化かしの老桜、年経というだけあってどうにも守りが固かったのだが、お前がうまく隙を作ってくれた」
「あれ、隙になってましたでしょうかね」
 うむ、と与一は頷くと、桜の老木を見上げた。
 冬に身を固めた古木は、狐神の眼差しを受けても何一つ揺るがず、ただ老いさばらえた者のように佇むのみである。
「桜の精というものは、相見た者へ幸福な夢を与えるのが身上でな。
 幸福で美しい夢に誘い込み、人に現<うつつ>を放棄させて、取り込み喰らうのが常套手段。だから、夢を産み人を取り込み始めた時ならば、守りも薄くなるのだよ」
 清水は与一の横顔を眺めた。
「ほむ。つまり私、生餌だったわけですよに?」
 与一は力強く頷いた。薄い黄金の獣瞳が、まっすぐに清水を覗き込んだ。
「お前の力を信じての派遣だ」
「それについて、私の身の安全についての保証は」
「だからこうして俺がきちんと現場に来ているだろう」
 清水はゆるりと首を傾けた。
 しばし考え、視線を緋毛氈の上の重箱へと向ける。
「与一さん、あれなんですか」
「ああ、これか」
 そうだな、と与一は一人合点すると、緋毛氈の上へと上がりこんだ。お前も来い、と身振りで清水も差し招く。
 靴を揃えて上がり込むと、与一が風呂敷包みを投げ渡した。
「そのままでは寒いだろう」
 中身はどうやら防寒具であり、清水は首をすくめて肩掛けにする。
 その間に、与一は重箱を展開した。助六寿司をぎっしりと詰めた段、魚の焼き物や天ぷらを詰めた段、煮しめや出し巻き卵など惣菜を詰めた段、色合いも穏やかに、手の込んだ和弁当が緋毛氈の上に広げられる。二人分としては若干多いような分量であった。
「これ、角の松林堂さんのじゃないですか。こんな冬の時分に外で昼食ですか?」
「帰路空腹で過ごすよりもよかろう。気兼ねなく食べるがいい」
「それじゃお言葉に甘えまして」
 塗り箸と小皿を渡され、さあ、と勧められたならば、清水とて遠慮することはなかった。
 清水は重ねを一通り眺め渡すと、稲荷寿司を取り上げる。
 しっとりと煮含められた揚げ皮のぬめりを感じながら、まずは一口を噛みとった。咀嚼。じんわりと滲む甘味、噛み切るごとに寿司酢の香味を纏った飯粒が舌の上を滑る。咀嚼していくうちにはぜる、ぷちぷちとした香気は胡麻によるものか。総じて美味と評しながら、稲荷寿司一つを食べ終えた清水はもう一つ、二つ、三つと稲荷寿司を取り上げた。
 ここにきて、この迂闊な狐神はようやく我に返ったようだった。
「お、お、お前! それは俺のお稲荷さんだぞ! せっかくの角の大刀自からの供え物を……!」
「危険手当と仕事代、頂いてませんのでー」
「それにしたって、俺の好みを知っておるだろう貴様」
「気兼ねなく食べるがいいと仰ったのは与一さんですしー」
 助六寿司の重箱を慌てて清水から遠ざけ、大袈裟に騒ぐ狐神を尻目に、優花は手元に取った稲荷寿司を咀嚼し、飲み込む。小腹満たしと意趣返しの確かな満足感があった。
 口をつけた跡のない魔法瓶からカップに茶を注ぎ、口を軽く清める。狐神は未だに重箱の穴として失せた稲荷寿司を未練げに見つめていた。決して長いとはいえない与一との付き合いの中で、この狐神にとって稲荷寿司というものはただの食べ物以上の存在であるらしいことを清水は学んでいたが、だからといって仮にも神威ある存在がこの有様はどうかと思う。
 しばらくして与一は嘆くことを諦めたのか、しぶしぶと重箱から手を放した。酒器を手元に引き寄せる様子を見て、清水はそつなく徳利を取り上げる。不愛想に突き出された盃に酒を注ぐと、与一の目許がいくばくか和らいだ。庇護を得ているという負い目もあるが、この狐神はどうもチョロいところがあって、清水とて邪険にはし辛かった。それが狐神の思惑の通りなのか、あるいはかの神の素直な本性なのか、見定めるには清水は若すぎた。
 清水の給仕を受けつつ酒を進める与一は、ふと盃を手元に引き下ろした。灯火を盃に写し取るような仕草だった。
「そうだ、優花よ」
「なんでしょう」
 こくりと首をかしげると、狐神が清水を見ていた。
「お前はどんな幸いを見たのだ」
 精悍な人の顔をしながら、それはどこまでも異貌であった。
 桜の怪の幻を問う、それは薄闇に潜む異界のものどもの眼差しを備えているがゆえに。
 清水はふっと目を伏せ、カップの茶を一口含んだ。
 魔法瓶の中に保存していた筈のそれは、すっかり冷え切っていた。
 潤した口は、滑らかに言葉を生む。
「さあ、なんでしょうね。所詮夢です、もうそんなものを覚えてなんていませんよ」
 冷淡に応じた少女の横顔を横目に、与一は何がおかしいのか、くつくつと笑いながら盃を干した。
 ペースが速いですね、と眉をひそめて清水は徳利に手を伸ばす。
 すると、どこに引っかかっていたものか、ふとひとひら、薄い色をした花弁が清水から零れ落ちた。
 時ならぬ春の、それは幻惑のような形見であった。
 清水は左手でそれを払いのけた。毛氈の上からこぼれた儚い花弁は夜闇に紛れ、どこへともなく消えていった。
 季節は冬、春を夢見るばかりの季<とき>である。



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初出:2015/05/06 http://www.twitlonger.com/show/n_1sm2vh5
2015/10/04改題・改稿
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