彼女の膝に頭を委ねて見上げる空は、薄墨の花を溶かしたように茫洋としていた。季節は春、時は夕暮れ、空には薄く光が残っている。
会話の途切れた静寂を、二人は穏やかに味わっていた。
ねえ、牧本サン。
沈黙を破ったのは、夏野の問いかけだった。
「いつがいいと思う?」
これからどうするのかはもうずっと前に決めた。
夏野が尋ね、牧本が決めた。
二人の間ではそれだけで終わっていた。
だが季節は移ろう。今はそのもう少し先を決めねばならないのだと夏野は理解していたし、それはおそらく彼女も同じだった、そう思っていたのだが。
夏野の問いに、牧本は首を傾けるようにした。それは疑問の表出で、
「夏野サンノープランだったですか」
「私こういうの苦手なんだよねえ。先の予定を決めるより、その場でぱっとやる方が好き。だから時期はあんまり詰めて考えてなくて」
ああ、とはんなりとした納得顔で牧本が頷いた。
どうしよう、と夏野が呟き、そうですねえ、と牧本が応じる。
のどかな沈黙があった。
夏野は牧本越しに花を見上げていた。ねじくれた巨躯の老木は六分咲き、咲き切らず、硬く噤んだままの蕾もある。はち切れんばかりに膨らみ、開花を待つものも。その一方で、無防備なまでに開いて、夕暮れの静かな風にも散る花弁がある。
小刻みに揺れながら落ちてくる花弁は、夕暮れの光の中で奇妙に切なかった。
牧本の髪先に、ひとひら桜の花弁が留まる。
それは未知の種の蝶のようで、夏野の中のギンヤンマの部分がふと疼いた。それは腹の底がゆるく滾るような感覚で、押さえるのに少しだけ難儀した。
夏野が内心の葛藤を押さえる間に、花弁は前触れもなく舞い落ちた。
そうですね、と口を開いた牧本が夏野を見下ろしたためだった。
色彩の薄い彼女の顔に花弁は良く映えるようだったので、夏野はそれを惜しいと思いながら牧本の言葉を聴く。
「春の少し手前、でどですか」
「卒業式の頃?」
いいね、と夏野は少し笑った。
夏野は結局卒業式を迎えなかったし、彼女も、その他の多くの彼らもまたそうだった。卒業したのは、ここにはいない彼女一人きり。
ならばそれに倣うのも悪くないと思う。いつかの続き、いつかに陸続きのまま迎える終わりならば。
だが、彼女の考え方は夏野とは少し異なっていたようで、
「桜に追いかけられて、なんて」
ちとロマンチックですかね。
言葉には含羞が濃かった。らしくないことを言った、という意識があるようで、見上げた夏野の視線から彼女は逃げる。白い首筋が豊かな髪の合間からのぞいた。
そこまでしなくてもいいのになあ、と思いながら、夏野は素直な感想を告げた。
「悪くないね。そういうのもいいと思う」
そこでやりとりは途絶えた。
牧本は顔をそむけるようにしたまま、桜を見ているようだった。見ているふりなのかどうかまでは判別がつかなかった。
あの夏の谷川から、思い出しきれないほどの年月を近しく過ごしてきたのに、未だに彼女の横顔を眺めると面映ゆくなる。夕方の光で薄く頬が色づくのも、髪先が風に揺れるのも、三白眼気味な眼差しが思いがけぬ情緒に染まるのも、本人が隠しえたと思っているであろう感情を拾うことも、全て、全て薄く光が広がるような眩しさと共にある。
時を重ねるごとに、その眩しさをどのように名づければ良いのか、夏野は理解し始めていた。その言葉に行き着くまでに年月はかかったけれど。
彼女の横顔に眼差しを添わせながら、夏野はそれを口にした。
「綺麗だね」
牧本からの返事には少し間があった。
牧本はこちらを見ない。
「――いい時期に来ましたね」
夏野はおや、と目を細める。
返しの内容のわりにレスポンスが鈍くて、声がほんの、ほんのすこしだけ硬くて。
これは、こちらの意図を飲み込んでいたのに、わざと無視してみせた声だ。深追いして追い詰めるかを少し迷って、夏野はもう一つのやり方を選んだ。
頭上に手を伸ばす。こちらの動きに一瞥した彼女は意図を取りかねた様子で、よくよく無防備だった。だから夏野の望みは簡単に果たされる。
子どもっぽい丸みを残した彼女の輪郭を、耳元から頬骨をたどるように撫でる。
ふくふくとした柔らかさと熱が好ましかった。
夏野はうん、と一言頷き、
「良い時期だね。ここから見るとすごく綺麗だ」
その言葉を聞いた彼女の反応を、夏野はしばらく――あるいはずっと忘れなかった。
夏野は身を起こすと、牧本に身を寄せた。
眼差しだけの問答があった。咎めと甘やかし、拗ねと甘え、反発と思慕が往還し、その果てに、許しが生まれた。
花は盛りであっても香りが漂ってこないのが、桜の季節になるといつも不思議だった。匂いの強い花々と比べて、それでもなぜこの花が愛されるのか。今はその理由が少しわかる。
桜は人と見る花なのだと。
「うん、やっぱり――綺麗だ」
少女の髪からは、柔らかく甘美な匂いがした。
<END>
初稿:3/25/2015
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