寝室に、ふと異質な息遣いの気配を感じて牧本は目を開いた。
時刻も分からぬような深夜である。僅かに引きが足りなかったカーテンの隙間からは砂糖めいた淡い月光がこぼれており、今夜が満月であるのだと夢うつつの心地の中で悟る。眠りはまだ、牧本のごく身近なところを揺蕩っている。
ぼんやりした現実の中で、牧本は床を踏む気配を感じた。
窓際が仄明るいせいで、寝室の闇は一際深かった。目覚めで鈍った視覚は、粒子めいて漂う闇の中にある。
何も見えない。
だが、それは床の上をゆっくりとこちらに歩いてきている。
歩幅の間隔は狭く。
足音というよりも、気配という漠然とした重みに還元される存在感。
床板に滑るような爪音。
それらの連続は、果たして現実の音であったのかどうか。
気配が近づく。
空気がしんと冷める。
圧倒的にこちらの知覚を奪ってゆくくせに質量を伴わない、虚ろな感覚が身近で牧本を圧している。
気配は枕元近く、寝台の傍らに佇んで、そこで動くのを止めた。息遣いだけが聞こえる。眼差しだけが感覚される。
(……ああ、また来たんだ)
それの吐息が聞こえた気がして、牧本はゆっくりと目をつぶって寝返りを打った。
ならば、恐れなくていいのだ。
寝台から片手を零す。床下にむけて垂らす。
再び眠りの中に囚われていくまでの僅かな間、牧本は確かに感じていた。
生ぬるい息遣いが、獣の舌が、その手のひらを滑ったことも。
分厚く荒い獣の毛並みが、熱を恋しがるように預けられたことも。
「……はい。まあ猟犬の、放されちまった奴ですかねえ、野犬の、でかいのじゃないかと。
猟友会さんの方にも相談してますけども、近隣住民の皆さんにもォ、その、警戒などして頂いた方がよろしいな、そういうことでお伺いしてまして」
異様な死亡事件の発生が伝えられたのは、午前もまだ早い時分だった。
この地区で巡回を担当している日に焼けた顔の警官は、何度か顔をしかめるようにしながら、昨夜発生した動物咬傷による死者の話を伝えた。被害者は牧本の知人でもあった。
彼を同伴していた半田と名乗る警部補が、黒縁眼鏡越しに柔和なまなざしを牧本へ向ける。
普段牧本が出歩かないということを差し引いても、この地区では見かけぬ顔だった。
「こちらのお宅は一人住まいですし、ご近所が離れているでしょう。ですので、特に。
――昨夜は何か変わった物音などありませんでしたか?」
「……いいえ。昨夜はあいにく、朝までぐっすり眠っていましたもので」
牧本ははんなりと応じた。
「何か、事件の可能性があるんでしょうか」
「いいえ、ただ、動物の仕業ですから。山近くのこちらのお宅近隣を通ったかもしれないなと」
「そうですか。お力になれずすみません」
「いいえ、とんでもない。ところで」
警部補が目を細めた。
「動物を何か飼っておられますか」
牧本は一瞬絶句し。
「――いいえ、何も」
けれど、生まれた言葉は否定の一語だった。
「そうですか」
警察車両。
「半田警部補、本当にあの家が絡んでると仰るンですか」
「さあ……。でも荒木さん、あの家は以前から少しおかしい。それこそ、これにかかわっていてもおかしくないほど。そちらサンもそこは分かっておられるでしょう」
半田は一転して厳しい顔でその邸宅をのぞんだ。
鬱蒼とした山に寄り添うように建てられた白亜の屋敷は、冬の午前の光に亡霊めいて佇んでいる。
古くから屋敷に暮らした係累は全て滅び、たった一人、養女として迎えられた女だけが墓守のように暮らす家。
似合いなのかもしれなかった。
「そちらはより不穏な話も握っておられるそうじゃないですか。管轄違いですがね、噂に聞きますよ、"文月ファイル"」
巡査部長は、半田の横顔を不気味そうに伺った。
地元暮らしの巡査部長には、どうやら半田が思う以上にこの屋敷に暮らすものへの畏怖があるようだった。
彼が口にした言葉に、半田は手元にまとめられた異常な数の死亡事例をまとめた報告書を思う。
車両不整備で事故死した若者。
突然の自殺。
心不全による死亡。
死を数えるのに、片手では指が足りない。
そして、その全てに関係する黒い髪の女。
「さて……これを機会に、尻尾を掴みたいんですがね」
半田は再び思い返す。
獣の匂いがうっすらと漂う屋敷に暮らす、彩りを持たない黒髪の女のことを。
その、どこか現でないところに魂を惹かれたものの目を。
<END>
初出:2015/03/05
http://www.twitlonger.com/show/n_1sl2b5g
改稿:2015/03/05