一時解散した会議室は、先ほどまでの議論の熱が嘘のように静まり返っていた。
己の席に戻った清水は視線を室内にさまよわせていた。教卓を囲むようにコのノ字型に組まれた机のうち、すでに五つが椅子を欠いていた。そのうちの一つは、他ならぬ清水の手によって取り除かれたばかりだった。
その机に清水の視線はひと時とどまった。そこには「尾崎タカ」というプリントアウトを切っただけの名札が貼り付けられていた。眺めるうちにこの名札システムを初見した時のメンバーの反応が脳裏に蘇り、だが、清水は無理矢理にそれを振り払う。一瞬脆くほころびかけた表情は、水面に氷が張るようにしんと凍った。
場に不似合いな朗らかな声が飛び込んできたのは、そんな時だった。
「あれ、清水ちゃんまだこんなとこにいたの」
襲撃されても知らないよ、とその声は笑みすら含んで続く。
首だけをゆっくりと巡らせて清水はそちらを見た。
「―‐狼みたいな事を言いますね。ナツさん」
果たして、一人の少年が戸口に体をもたれさせるようにして佇んでいた。
ポケットに両手を突っ込んだまま、わずかに顎を上げ、彼は肩をすくめて見せた。
「狼じゃないってことは納得してもらえたと思ったけどな」
清水のまなざしを受けてなお、夏野はいつもの放課後のような険のない笑み顔を崩さなかった。それは今ここに至って、とても奇妙なありさまだった。
「およそあり得ないでしょ、あの盤面では」
「それは、"明日"の結果次第の事でしょう」
夏野は笑った。
清水は笑わなかった。
「ナツさんは随分と楽しそうですね」
「そうかな?」
夏野は勢いをつけて背を離すと、会議室へと踏み入った。学年カラーのつま先をした上履きが床を踏み、古い床がきしんだ。その音は、この夜においては生き物の呻きめいて響いた。
「楽しそうですよ。"明日"、ナツさんがどうなるか、予測できていないわけじゃないでしょうに」
清水の言葉を聞きながら、夏野は教卓を行き過ぎ、清水を横から眺めるような位置で立ち止まる。
「意外だなあ。気にかけてくれるんだ?」
夏野は眼を細めてゆっくりと口の端を上げた。
猫が耳を伏せるような、そんな気配があった。
「君は私のこと、嫌いだったでしょう」
事実の指摘でしかないように、夏野はその声に一切の影を載せなかった。
清水の応えは一拍遅れた。
「そうですね。嫌いでしたよ、ナツさん」
清水の答えもまた、何の感慨も宿らなかった。
夏野の指摘がそのまま真実であったので。
「……ナツさんは何でそんな顔をしていられるんですか」
夏野は少し考えたようだった。
そうだね、と夏野は数歩を踏み、清水の背後に立った。
「辛いこと――地獄とでもいうような、そんな所でどうやって過ごしていけば長持ちできるかっていう答えはわりとシンプルでね」
清水の背後で笑みこぼすような気配があった。
「地獄を楽しむ事だよ。清水ちゃん。私はそうした」
だから。
「君も地獄を楽しむといい」
清水は、見えない夏野の表情が見えた気がした。
口の中がひどく渇いた。
「人が、」
喉がひりつくように鳴った。
「人が、死んでる――人を、みんなを、殺してるんですよ」
「それがどうしたの?」
けたたましい音を立てて清水の椅子が転がった。回転が収まりきらず、一つ、二つと更に鳴り続く。
静寂。
清水は右手に残る痛みをろくに感じもせぬまま、目を見開いて眼前の少年を睨んでいた。
「怖い顔だね、清水ちゃん」
右頬に赤く熱を残したまま、それでも夏野の微笑は崩れなかった。
言葉の生まれえぬ相対が続いた。
やがて、対峙に場違いな電子メロディが夏野の腰から響いた。
それは古い時代劇の挿入歌で、メール着信を示すものらしかった。
夏野がわずかに眉を寄せた。
「残念だけど、これ以上のお喋りは無理みたいだね」
彼はちらりと腕時計に目を走らせ、
「んじゃ、元気でね清水ちゃん。あと十五分で次の朝だ」
夏野は再び楽しげに笑った。
「さようなら、ナツさん。どうぞお元気で」
清水はやはり笑わなかった。
夏野が踵を返すと、もう二度と二人の視線は交わらず、そして清水は会議場に一人となった。
夏野は照明が落とされたままの廊下を歩いていた。
メールの文面はとっくに頭に入っていたから、あとはそれを導きとして歩くのみだった。
教室をいくつも過ぎ越し、やがて奥まった階段に至る。
階段を上りながらふと夏野は眉をひそめ、再び元に戻した。それは、一瞬脳裏に蘇ったものを振り払う動作だった。
「……これで"今日"を楽にしてくれるような子だったら助かるんだけどねえ」
踊り場には、階上から垂れ下がる長い影が伸びていた。
だから、夏野は階段の上を振り仰いだ。
「どうにも難しいじゃないですか、ねえ? 狼さん」
階上、長身があった。
背後にあるはずの大窓から差し込む月光に支えられて、夜が夜であるゆえにその髪も装いもなお黒く染めたのは、
「誘い通り、来てくれて嬉しいよ、夏野」
空閑景史郎その人だった。
彼はふと怪訝そうに空気を嗅いだ。
「――みっちゃんの匂いがする。その顔、狼扱いでもされたかい、狩人くん。いや、あの子ならそんなことはしないかな」
「最後のはなむけにキスをしてもらったのさ、人狼さん」
怖じ気もなく、眉を立てるようにして夏野が口を笑みの形にした。
「その軽口、いつまでもつかな」
空閑はにたりと笑った。
口からのぞく歯が夜の中でやけに白く目に付いた。
「悪役芝居が安いよ、けーしろさん」
牙を見せつけあうようなそれは、双方ともに笑みに似ていながら、最もそれから遠い表情であった。
空閑が顎を引く。
薄く色を変じたような、空閑の瞳が夏野を捉えている。真夏の大気の中で、それでも凍りつくような獣の殺意がそこにあった。
「君には"昨日"を贖ってもらうよ、夏野。せいぜい覚悟を決めるがいい」
「あと十五分――それで決着できるならね」
夏野はそれでも、そのしたたかな笑みを捨てなかった。
おそらくは、最後までも。
――会議室。
清水は一人瞑目している。
「酷い話」
会議室にはまだ誰も戻ってきていない。
机の群れ群れが、一人立つ彼女に従うようだった。
清水は己の机の影に落ちていたものを拾い上げた。
それは、赤い千代紙は輪郭も端正な折り鶴である。
「私にそうやって明日を確約していくんですね……ナツさん」
手の中で赤い鶴をもてあそぶ。
金線で描かれた流水をはらんだ鶴は嘴も鋭く尾を立てており、その折り方は、普段の彼の印象からは遠かったけれど、それでも清水は鶴の折り手を確信していた。
「嘘をつくのが下手な人たちばかりじゃないですか。ねえ、」
清水はふと口を閉ざした。
彼女が見ていたのは、"昨日"処刑された一人の少年の机だった。
清水は自ら振り払う動きで視線を動かした。
問いかけめいた声にもはや何かが変えるわけもなく、会議室は次の"夜明け"を待っている。
――【夏】匿名転校生 夏野蜻蛉 は、【優】養殖純朴 清水優花 を守っている。
――次の日の朝、【夏】匿名転校生 夏野蜻蛉 が無残な姿で発見された。
<END>
初出:2014/12/31
http://www.twitlonger.com/show/n_1sjjra8