毛布を補い冬の夜を温かく眠る術に係る小論――或いはいかにして牧本は抱き枕を得て
夏野は(元)男子高校生としての尊厳を
失ったか

 口をつけたマグカップの中身の冷たさに、牧本は意外な時間の経過を自覚した。時計をみれば、短針は既に40°はお辞儀をした角度で、普段の就寝時間をゆうに超えている。
 牧本が座卓で広げていたのは動物の姿も鮮やかな写真表紙のハードカバー、ある動物学者のアマゾン川探検記である。表紙写真が気になって図書館から借りてきたものだが、夕食後のお茶を飲みながら読み始めたところ、思いがけず没頭してしまった。
 牧本は膝に視線を落とした。そこでは、柔らかな毛並みの犬の頭が預けられており、立ち耳の彼は目を瞑ったまま、時折ぴすぴすと鼻を鳴らしていた。読書の途中で、彼――かつてはともかく、今はセーブルの毛並みも豊かな大型犬の姿をした夏野――がこちらの膝に頭を置いたので、すまないと思いながらも片手間に撫でていたのだが、いつの間にか彼は寝入っていたようだった。腕の隙間から頭を差し入れたり、背中に鼻づらを押し付けたりと、夏野から気を引く仕草を何度か受けた記憶もある。そこで牧本が落ちなかったものだから、夏野の中ではこういう対応で決着したのだろうと思うが、彼をこんなに長時間放っておいてしまったのには申し訳なさもある。
 そうやって牧本が顔を見ていても、牧本の膝に頭を預ける夏野は、ホットカーペットにぺったりと腹を張り付けた姿勢で寝入ったままだった。うとうとと喉奥を鳴らしてはたまに頭が揺れるので、何か良い夢でも見ているのかもしれなかった。
 顔の目許から首筋にかけて、静かに指で梳いてみる。長毛が柔らかく指に遊んだ。しばらく黙って撫で続けていると、夏野がぼんやりと目を開いた。二度三度ゆっくりとした瞬き。光が入ると暖色の明るさがきざす茶色の目が、うたた寝の混沌から醒めていく。
 まだ眠気のようなものを残したまま、夏野が牧本を認めて甘く鼻を鳴らした。
「放っててごめんです、かげろーさん」
 そのまま首筋を撫でてやると、夏野はするりと伸び上がり、牧本の膝に前足を置いた。背をそらすようにしてそのまま伸び上がった頭部は牧本の首元に擦りつけられ、舌がべろりと顎を舐めていった。膝から足を下ろし、カーペットの上で小さく身を震わせれば、それが彼の覚醒だった。
 夏野が膝から降りたので、牧本はマグカップの始末をつけ、就寝の支度を始めた。いつになく窓辺から冷気が忍び入る夜だった。この週末に大型寒波が来るというのは本当のようで、カーテンを閉めきっていてすら、夜寒が床を蛇のように這うのが目に浮かぶようだ。
 夏野に目を留めれば、彼は丁度お気に入りの毛布を引きずって、改めて自分の寝場所を作っているところだった。牧本のベッドの横に並ぶようにして、毛布だまりの中で丸くなるのがいつもの彼の就寝スタイルだ。
 だが、今日の冷え込みを見てみると、それでも寒いのではないか、そんなふうに牧本は思い、
「かげろーさん」
 ベッドの中から呼びかけると、律儀に口から毛布を落としてから夏野が振り返る。毛布の毛触りでも気に食わなかったか、しきりに鼻先を舐めているが、
「今日、寒いでしょ。こっちどですか」
 布団を上げて示す。
 瞬間。
 リラックスしていた夏野の耳と尻尾が一気に直立した。
 もともと丸っこい目をしている夏野だが、今はその目がさらに見開かれて白眼が見える。
 牧本は困惑した。
「なんですその顔」
 夏野は答えず、ただ首を縮める。
 その表出は、気まずさと後ろめたさだろうか、と牧本は分析した。今更何を遠慮しているのか、という疑問も同時によぎったので、次はあえて強い言葉を選択する。
「嫌ですか」
 顔が強く上がった。
 鼻先を大きく揺らす。強い否定の合図。
「じゃあ」
 畳みかけると口の中でもごもごと夏野が鳴いた。
 奇妙に人間の声に似た鼻声が、少し情けないような響きだった。
 これは二人の間にある意思疎通の決め事にはないことで、従って、
「何言ってるか分かんない」
 夏野が慌てて左右を見回した挙句、前足をベッドの布団に打ち付けはじめた。
 何かを言い訳したいようだが、本人の動揺のあまりモールス信号のコーディングに失敗しているようで、どうも意味が通じない。長音と短音の区別すら、だんだん怪しくなってきている。
 ここにきて面倒になった牧本は無言で夏野の前肢を掴んでぐいと引っ張った。
 バランスをタイトにしたところで、そのまま横向きに姿勢を崩させたら、後は足の付け根に腕を差し込んで一気に勢いで引っ張り込むだけだ。
 それでも夏野が後ろ足で踏ん張って抵抗するのだが、
「何で抵抗するですか。往生際悪いですよ」
 獣舎の世話で鍛えた感覚をあまり舐めないでほしい。どうもこの人はこちらを年少だと思って自分ばかり大人のような顔をするが、ちょっと見くびりすぎだと思う。
 犬としてはやや大型の夏野といえど、獣舎屈指の性悪ビデ夫やへそまがりのホンダ菜、頑固で力の強いあたりに比べれば、付け入る隙は見えているし、体格の上でも取り組めない相手ではない。まして、本人が動揺しているなら猶更彼の隙は大きくなっており、牧本は十分な勝機を感じていた。
 無言の攻防には数分もかからなかった。
 最終的な帰結として、
「うん、いい」
 布団を掛け直した牧本は、腕の中から帰ってくる感覚に満足を覚えた。
 牧本の体温より少々高めで心地よい熱、それを包むダブルコートのごく柔らかで豊かな感触。獣の匂いがするのは当たり前で、毛足も長い分、まあこんなものだろう。ちょうど耳が目の前に来ていて、それがせわしなく動いているので、つられて動く毛先が少しくすぐったい。
 布団の中、牧本が夏野を背中から抱え込む姿勢である。
 前足の付け根に腕を差し込み、ホールド。牧本の膝の上には丁度夏野の尾が当たる形になっているのだが、感触からしてこれ、夏野自身の足の間に巻き込むような形になっているのではないか。怯えポーズをとられるのは心外ではあるが、この気弱な様子はシャワーで夏野を洗った時に見た以来――その後、バスタブの使用を非常に神妙な顔で要請された――なので、新鮮さがないこともない。
 ともあれ、
「あったかいですよかげろーさん。もっとはやくやってればよかった」
 腕の中で、ふん、と夏野が鼻を鳴らすのが聞こえた。
「何か言いたいことありそうですねかげろーさん」
 この姿勢ではモールスも使えないし、対話用の文字盤も机の上だ。
 自然、問答の主体は牧本となる。
「もしかして、冬毛だし布団の中暑いですか」
 ゆるく鼻先が振れた。
「暑くてアレだったら抜けても」
 もう一度ゆるく鼻先が振れた。
 後ろから抱え込んでいる分、表情が見えないので、子供をなだめているような感覚があった。
「じゃこのままでいいですね」
 鼻先は動かない。
 結論が出た。
 前足の下にずっと腕を敷き込んでいると互いのためによくない気がしたので、牧本は夏野を抑え込んだまま右腕を抜くと、夏野の顎の下に差し入れた。
 すると夏野がぎょっとしたような顔で振り返ってこちらを見た。
「何ですかその顔。こうしてないと腕のおさまり悪いですし」
 そんな無理のある体勢になってまで伝えたいことなんだろうか。
 今日の夏野はなんだかおかしいし、牧本もそろそろ眠いので、彼女は相手の反応を待たずに夏野の首筋に頬を埋めてみる。夏野が落ち着かなげに頭を動かしているのは感じていたが、抵抗するほどではないらしいのでそのまま甘えることにした。人より高めの体温と、細く空気をよく孕む毛並みが肌に心地よかった。
 片手間に枕元の紐で照明を落とす。
 夏野のセーブルの毛並みは闇の中に暗く沈んで、それでも生き物の匂いと熱が、強固に彼の存在を伝えていた。呼吸の穏やかなふくらみと減衰が腕の中には宿っており、そのリズムがやがて牧本を穏やかな夢に導いていった。
 冬の夜は海に似て、ゆっくりと浮き沈みする獣の体を浮き板代わりに、牧本は冬の夜の眠りを渡ってゆく。



<END>



初稿:12/11/2014 
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