残照

 夏の最後の残照が頬をかすめ、牧本は薄目を開いた。何か痛ましい夢を見ていた気がしたが、夢の残滓は赤光の温もりに溶け消えて、牧本の内側にかけらも留まらなかった。
 傍らで身じろぎする気配があって、うろ覚えの記憶のままに右手を伸ばすと、空気を孕んで柔らかな毛並みに指が届いた。ぼんやりとしたまま手櫛で梳かす。まだ子供めいた指の半ばまでに被毛が絡みつく一方で、牧本の指先は木の葉の絡まりを探り当てていた。昼にもブラッシングした筈なのに。いろんなところを走りまわっていたからだろう、本当に仕方がないひとだと思う。
 少しだけ気怠い。体の重たさに意識を委ねて、もう一度目をつぶる。
 指先の動きが留まったことに応じてか、温もりが身じろぎした。指先から温もりが離れたのを少しだけ惜しいと思う。
 風音に似た、草を踏む微かな足音。
 やがて、頬に熱くぬめる感触が来た。頬からそれが目じりの方にまで近づいてきたので、牧本は、ん、と顔をそらせた。甘くも不満をにじませた鼻声が耳元に届く。
「夏野サン。まて。まーて、」
 右手を相手の首に絡ませ、宥め乍ら目を開く。彼の爪先が、木製のベンチをひっかく微かな乾いた音。
 茶色をした丸い目が牧本を覗き込んでいた。頑健にふとましいマズルが、少し心細げな様子で頬に触れる。
 目に差し込んだ夕日が転寝から醒めた感覚にはまぶしくて、牧本は目を細める。暮れゆく太陽を浴び、豊かに輝く毛並みを波立たせた長毛の獣が牧本の視界を埋めていた。
 全体の姿としては、狼とも犬とも言える。あえて選ぶならコリーによく似ていたが、それよりもなお大型であった。顔を見れば、鼻は凛と伸び、目尻は切れ長で、瞼の上に落ちた眉のような明るい色が、獣の表情を快活なものとしていた。立ち耳は柔和に毛並みに覆われ、胸元は空気を孕んで優雅に膨らんでいる。毛足の長い被毛は、意外なほどに落ちついた輪郭を彼に与えていた。ごく豊かな濃茶<セーブル>の毛並みは、今この時のように、光の加減によってはよくよく輝く色味である。温かみのある橙を輪郭に帯びた褐色の濃淡が全身を覆う様は精悍だった。喉下から腹にかけては、色が白く抜け、一層の柔らかさを添えている。ダブルコートの毛並みは今は季節に応じた短毛ではあるけれど、少しずつ冬の備えが育ってきていることを、先ほど牧本は確かめていた。
 黒ずんだ口元から鮮やかに白い牙を見せ、舌先をこぼして牧本の顔を覗き込んでいるこの獣は、獣であって獣でない。
 彼はかつては人間だったし、今も内面は変わっていないことを牧本は知っている。
 夏野蜻蛉、以前よく一緒にゲームをした年かさの少年。ひょろりと丈があって、明るい猫っ毛と活発な挙動に言動で、ごく気楽に距離を詰めてくる。それが当初の印象だったせいで、結局最後まで先輩と呼ぶことがなかった。
 彼がこの姿で戻ってきたのは最近のことだ。学校裏に突然こんな大型犬が現れたかと思ったら、尻尾を勢いよく振りながらの懐き体勢で飛びついてきた時にはさすがの牧本も動揺を隠せなかったのだが、紆余曲折の果てにあいうえお表を駆使した意思疎通が可能になってからはとんとん拍子で物事が進み、今ではどこに行くのもだいたい一緒というありさまだった。最近は牧本も順応して、文字盤などがなくてもおおよその意志が読み取れるようになっている、というのも一因である。
 とはいえ、当初はよく彼を夏野だと直感できたものだと思う。人は人で、犬でも狼でもない。そういうものだ、人と獣の姿を移り変わる人狼だって伝説上の存在であって、そんなものは尚更いない――そう、普通はそういうものだ。
 思考をゆるくたゆたわせた牧本に、夏野が焦れたように再度鼻先を寄せた。このまま手をこまねいていると顔中をべたべたにされかねないので、顔をそらしながら宥めるように夏野の耳の裏を掻いてやる。
「日が暮れたね夏野サン」
 かえろっか。
 囁いて、首筋を軽く叩いてやる。ベンチに飛び乗っていた夏野は喉奥を鳴らし、牧本の前に降りた。こういうところが本当に人間の夏野を彷彿とさせる。毛足の長い輪郭もあるのだろうけど、体格の割に身のこなしが軽く、そして確かだった。
 夕方の児童公園は人気もなかった。寝乱れた髪を牧本がかき上げると、転寝の間にずれた髪留めが絡まった。差し直そうと一度引き抜いて、ふと意外な気持ちに囚われる。手にとったそれは、使い込まれた形跡のある赤いヘアピンだった。こんな色のものを自分は使っていただろうか。
 ふと視界の端で何かが動いた。見れば、ベンチ前の夏野が不審げに振り返っていて、心配そうにこちらを見上げていた。前足を上げて、牧本の左側の木版を何度かひっかく。長音と単音の組み合わせパターン。
 ――ゆ・め・み
 ――わ・る ?
 モールス信号でのやりとりは、まだお互いに慣れていないこともあって、どうしても言葉が拙くなる。それでも、牧本には十分に汲み取れていた。空いた左手で夏野の前足をくるんだ。足先の逞しい輪郭と熱が手の中にある。そのまま何度かタップしながら、
「ごめん夏野サン。なんでもない。ちょと待って」
 右手でピンを髪に差して留めた。寝起きだからだろう、どうにもぼんやりしてしまっていけない。陽が落ちる前に帰らないといけないのに。
 夏野がどうにもこちらを気にかけているので、牧本は彼の背に右手を預けて歩くことにした。うっすらとではあるけれど、夢見がよくなかったような記憶もある。もしかして、うなされていた自分を心配してくれているのかもしれない。
「結構、時間遅くなったですね。起こしてくれて、よかったのに」
 夏野が首をかしげて視線を流した。人間だったら、肩をすくめる程度の仕草だった。
「寝かせててくれたです?」
 夏野の肩を柔らかくなぞる。首筋から背中にかけて、毛並みの上に指を滑らせるのは撫でるこちらも気持ちがいい。被毛の柔らかさの奥に、ごつごつとした頚椎の存在感もうっすらと指先に伝わってくる。
 夏野はしばらく心地よさげに撫でられていたが、やがて首を回して牧本の手に顎を絡めた。手のひらに湿りを感じ、牧本はそこから肯定を拾った。
「ですか。じゃあ、ありがとです」
 しばらく立ち止まって夏野の好きにさせてから、再び背に手を回して歩みを再開する。
 夏も暦の上では暮れる頃ではあったけれど、夕暮れはまだヒグラシの鳴く声に彩られ、空は雲を吹き寄せて、季節を頑迷なまでに保っていた。遠く鉄塔が、物寂しい影を添えている。星見夜神社の鳥居を横目に通り過ぎ、住宅街に入る。街灯が灯り始めていた。
 三叉路に入ったところで、夏野がふと足を止め、尾を揺らめかせた。夏野に誰何する前に、前方から呼び止められる。
「牧本、夏野、こんばんは」
「空閑先輩。あいづちの散歩ですか」
 それはよく見知った相手だった。空閑の足元には柴犬めいたきりりとした面差しの仔犬が随いていた。仔犬の足は太く骨太で、いずれ大きく育つ可能性を示している。
 夏野がするりと牧本の手を置いて仔犬の方に寄って行った。尻尾を穏やかに揺らしながら鼻先を突き出すが、
「……夏野サン。毎度ですけどもすこし体格差考えたほが」
 仔犬は尾こそ巻かないにしても、やや緊張のある様子で夏野に顔を向けていた。夏野もあいづちも互いに見知った仲ではあるので強い懸念はないのだけれど、夏野の方にどうも遠慮が薄すぎるようだ、と牧本は見ていた。
 あいづちの口許から少し剣呑な唸りが聞こえたので、牧本は空閑に目くばせをした。空閑の方でも察しており、
「夏野サン、そこまで」
「あいづち、おいで。ぐるぐる禁止だよ」
 分断は速やかに行われた。
 牧本は夏野の首筋を両手でつかみ、自分の体ごと使って押さえつけるようにして。
 空閑は夏野が首を伸ばせなくなったところであいづちを抱き上げていた。
 夏野とあいづち双方を確保したところで、牧本と空閑は一つ頷きあう。ひやりとした一瞬を共有しあった者同士の共感といえた。
 そんな二人とは対照的に、空閑の腕の中で宥められながらもあいづちは眉を寄せており、夏野の方と言えばふわふわと尻尾を振っているばかりで、どうにも気楽な顔をしている。むしろ、牧本からの干渉に喜のニュアンスが見え隠れするようなところがあって、さすがの牧本と言えど少し呆れた。その様子を空閑が笑う。重ための前髪の奥で眼差しが柔らかくなり、
「夏野は夏野だね。……変わらない」 
「すこし変わってほしいです」
「そうかい?」
「……まあ、ちょとだけ、ですけど」
 そう、と頷きながら空閑が腕の中のあいづちに視線を落とした。仔犬は奇妙に静かな眼差しで牧本を見ていた。
 頭上の街灯に、虫がぶつかる音がした。ちらりと頭上に目をやる動きが、牧本と空閑で重なった。音の強さからしてカナブンかもしれない。いつの間にか、日は完全に暮れている。
「ああ……真っ暗になってしまったね。じゃあ、僕たちは行くとするよ。牧本も気を付けて帰るといい、夏野と一緒なら大丈夫だろうけど」
「あい」
 夏野がまたじゃれつきたがっては困るので、牧本はその場で空閑を見送った。
 別れ際、空閑の腕の中であいづちが夏野を一瞥していた。空閑があいづちを撫でてやる。それは不安を拭うような仕草で、一連の流れがなぜだか奇妙に印象深かった。
 牧本が腕を解いても、夏野はしばらく空閑の歩いて行った先を見つめていた。尻尾はもう、はためいてはいなかった。
「……行くですよ、夏野サン」
 牧本が促すまで、夏野はそうやって夕闇に視線を送っていた。 
 彼が何を考えていたのか、珍しく牧本には見当がつかなかった。


 そこからの帰路に特に特筆すべきものはなかった。
 帰宅したら、上り口の前で夏野を待たせて牧本はぬれぞうきんを作る。前足、後ろ足と一本ずつ足を上げさせて、泥やほこりを拭ってやる。ついでに、軽く毛並みを梳いて、大物のごみを取り除いてやるまでが普段通りの一連だ。夏野が動き回りたそうにするのをなだめながら、手際よく進めてしまう。
 それが終われば、あとは日常の生活作業だった。食事を作り、調え、片づける。身の回りを整える。そういったことを済ませれば、大分夜も更けている。
 牧本はソファに座り、いつものように動物図録を開いていた。夏野はその傍らに上がり込んで丸くなり、その頭を牧本の膝に預けていた。その様子と言えば静かなもので、声を上げることもない。時折、牧本の意識を招くように膝に前足が乗った。
 そういう時は、牧本は本から目を上げ、指を滑らせて夏野の輪郭を確かめてやる。前足に手を当てがい、ややざらついて硬い肉球を確かめる。親指で夏野の指を挟み、イヌ科の動物の揺るぎのない爪、その意外なほどの硬さを知る。外をよく歩いているので、爪が伸びすぎているということはないのだけれど。筋張った足を裏から辿り、肩を経由して耳元の、被毛深い根元を掻く。指先がよく沈むここは、素肌の熱も特に感じやすかった。喉元までを緩やかに梳き、手指の間に夏野の毛並みを流してゆく。顎の裏をやわくなぞってみれば、顎と喉の間に手が挟み込まれなどもする。ここは心地よくはあってもくすぐったいらしかった。
 ただ背中を撫でてやるのもいい。毛並みを整えるように撫でてやる。夏毛のこの時分、硬さのある毛の上を面白いように指が滑るのだが、同時に背骨の凹凸を一つずつ数えあげられそうな感覚も指先から伝わってくる。一方で、腹の上を撫でるのは柔らかさが少し違うようで、僅かに緊張感がある。夏野もくすぐったいのか、たまに身をよじったり、前足で腕を抱え込むようにする。
 そうした動作の中で、特に繊細な毛並みをした尻尾がはたはたと揺れるのは、一種の夏野のバロメータであった。横たわっているおかげで、ソファをゆるく打ちつけるような動作になるが、撫で方や視線によって満足を得れば、尻尾のリズムも加速する。彼の柔らかく細い被毛がそうやって揺らされる様子には優美さもあって、夏野が満ち足りている様子ならば、牧本にも満足のゆくものがあった。
 今も、そうやって牧本は夏野の首筋を掻いていたのだが、不意に夏野が体を緊張させた。はしと首を上げ、耳が確かな意識の元で動く。その姿からは、先ほどまでの安穏とした気配が失せていた。
「夏野サン?」
 牧本の誰何にも彼は応じなかった。警戒をにじませた様子でソファから飛び降り、夏野は窓辺に歩みを進めていく。横着をして締め切らなかったカーテンが、半身分程の隙間を作っていた。夏野はその空間を見つめ、耳をそばだてている。
 牧本も図録を置いた。
「夏野サン。何か聞こえる?」
 夏野の背まで近づく。夏野が薄く唸っている。それはとても珍しいものだった。
 牧本もカーテンの彼方を見透かそうとした。耳をそばだてる。
 何も聞こえない。夏野の唸りだけが小さく。
 いや、違う。聞こえるものがあった。
 初めはホワイトノイズめいた存在感ではあった、けれど、それは気づいてしまえば、
「――……狼の声」
 夏野が弾かれたように振り返った。
 だが、牧本は彼を見ていない。
 牧本が見ているのは窓。外の夜闇だ。
 牧本は窓辺に一歩を進める。そしてもう一歩。
 聞こえる。確かに。狼の声。長く尾を引く声。遠吠え。
 それは二種類の声が混じっている。若く高い声、そして。
 ――進足は、牧本の身の揺らぎをもって強制的に止められた。
 衝撃が体を走り、抜けていった。激突。その認識。
 ただ、思ったよりも痛みはなかった。牧本は温かく柔らかいものに受けとめられていたので。それは夏野、牧本の背を支えていたのは夏野の体だった。この一瞬、何が起こったのか、牧本もすぐには全てを把握できなかった。
 混乱しながらともかく身を起そうとして、左腕の不自由さに気づく。そこに、夏野の顎があった。
 部屋着の左袖を夏野が強く噛み、半ば飛びつくようにして引っ張ったのだ。そこでバランスを崩した牧本を、夏野は彼女の背後に回ったまま支えようとした――帰結。牧本はそのようにアタリを付けた。
 記憶にある限り、初めての夏野のふるまいだった。牧本を傷つけてこそいないとはいえ、今回のような直接的で衝動性のある干渉を夏野が仕掛けたことはない。
「……夏野サン?」
 自分の喉から出た声が思いがけず細く、牧本はそれによって己の不安を自覚した。
 夏野がゆるりと顔を上げた。いつになく伏せ目がちだった。顎は、依然として袖を噛んでいる。
 牧本の視線と夏野の眼差しが時間をかけて交錯した。ようやく覗き込むことができた獣の瞳は、攻撃でも敵意でもなく、もっと切実で深い色を湛えていた。牧本の視線を受けても夏野は顎を離さない。
 外では風が吹き始めたようだった。サッシが鳴る。
 夏野は顎を離さない。
「夏野サン……、」
 声は続かない。
 牧本は久しぶりに途方にくれた。何かが決定的に見えていない。だけど、何が?
 窓の外、風鳴りは人に知られざる獣の声のように響いている。夏野は沈黙している。
 だから、牧本は深く思考に沈んだ。
 そう。何か大事なことが失われている。思い出してみれば、この一日の風景は奇妙な希薄さがあった。改めて記憶を刻み直せば、違和感はすぐにも挙げられそうだった。記憶を幾重にも再生しながら、ふと髪に伸ばした手が硬いものに触れた。
 髪留め。赤の。
 何かを忘れている、それは確かだ。
 だけど、と牧本は疑問する。――それは本当に思い出す必要のあることだろうか。
 左腕に湿りが触れたのはその時だった。顎は開かぬまま、夏野の鼻先が牧本の腕に添ったのだった。それは明らかに労りの動作だった。
 そしてその一瞬、牧本は確かに夏野の瞳を覗き込んだ。彼の瞳の中にわだかまる沈痛を、牧本は確かに見た。
 そう、夏野は知っている。彼は、分かっているのだ。
 だから、牧本は初めに浮かんだ違和感から思考を意図的に剥がした。夏野が何を知っているのかは想像も理解もできなくても、夏野が何を考えているのかは牧本には分かっていたので。
 牧本は夏野に向き直る。左腕を軸にして腰から身を回す様にすれば、余裕が出来た分だけ腕の可動範囲に余裕が生まれた。そして、左腕を軽く持ち上げれば、夏野の顔が牧本に近づく。
 そうして見た夏野の顔には、普段漂っている陽性の気配が見る影もなかった。だから、牧本は自由になる右手で、ごくゆっくりと夏野の首筋を撫でた。
 一つの結論に行きついた今、牧本の口から声は毅然と発された。
「夏野サン。……お願い、外して」
 夏野はうなだれたまま、牧本の接触を受け入れていた。顎から力が抜けていく。
 それは、確信と活気に満ちた様子の夏野の姿とは異なる、無防備で弱弱しい姿だった。彼は動かないのではなく、動けないのだと直感的に見て取れた。
 だから、自由を得て立ち上がった牧本は窓辺に歩み寄る。
 カーテンの端に手を伸ばし、


 ――そして、鋭い音を立ててカーテンを閉め切った。
 牧本は夏野の傍らに座り込む。両手で夏野の顔を押し包むようにして覗き込むと、恐る恐る獣の瞳が牧本を捉えた。そこにはまだ混乱があった。牧本は我知らず笑みを浮かべる。今日は、このひとの珍しい様子をよく見ることになった。
「大丈夫だよ、かげろーさん」
 夏野の頬に添って、首筋に近い毛並みに指を差し込んで梳く。
 夕日の太陽によく似た、ごく細い、濃茶色の被毛。
 これが人の髪だったら、きっと赤が似合ったことだろう。
 今は牧本の髪を留めている、このピンのような色が。
「かげろーさん。私が決めたら、その通りにするて。かげろーさんは決めてた。ですよね?」
 夏野は肯定も否定も返さなかった。
 それが答えだった。
 右手で夏野の首に触れる。この手はこの人にとって、正しく安堵になるだろうか、そんな思考が頭をかすめる。
「あのね。かげろーさん。私、ちゃんと、分かるですよ。ずっと見てきたです」
 おずおずと夏野が前足を上げた。
 左手で牧本は受けとめる。すると、さらに前足が昇って、牧本の肩に夏野の前足が乗った。
 丁度顔の高さが同じくらいになる。
 夏野が、少しだけ首をかしげて見せた。
 あい、と牧本は頷く。
 この人はきっと、自分の気付かないところでいろんなことを考えていたのだろうな、と思う。きっと、そうやって自分を大事にしてくれていたのだ。そういうことだったのだ。
 だから牧本はさらに言葉を重ねる。夏野に伝えるべきことを、きちんと伝えなくてはならなかった。 「私はここにいる。ここにいるって決めた。です」
 金色の獣が眩しげに牧本を見つめた。茶色の獣瞳がわずかに細められた。
 夏野の瞳には、もう怯えも困惑もなかった。それはもはや見慣れた眼差しではあったけれど、今の牧本には、その色にもう一つの意味を読み取ることができた。
 すいと夏野のマズルが牧本に寄った。
 壊れ物の輪郭を確かめる動きで、鼻先が牧本の頬に触れる。吐息がくすぐったかったが、もはや牧本はそれを避けなかった。
 やがて、温もりを分け与えるようにして、ゆっくりと夏野が牧本の口許を舐めた。
 狼の長嘯<ちょうしょう>も、風の猛る声も、もう聞こえなかった。
 残照の黄金色が温もりとともに牧本の視界を満たし、穏やかなその光は沈むこともなく揺蕩っている。



<END>



初出:9/3/2014 


BGM:東方アレンジHouse set of "Moutanin of Faith"より
「稲田姫様に叱られるから」
「信仰は儚き人間のために」
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