全ての掃除を終えて、牧本は畜舎の中を見回した。往時はちょっとした動物園のような有様だった畜舎からは、鳥獣の気配が去って久しかった。ほんの僅かに残っていた生き物の残り香も、先ほど全て掃き出した。ここが春からどうなるのか、牧本は知らない。
見納めというには感慨は薄かった。ようやく全て終わったのだ、といううっすらとした解放感はあった。荷物は校舎からとっくに運び出している。教科書も、ノートも、図説の類も。生物の図版だけは処分するのにためらいが生まれたけれど、それも昨日終わらせた。そもそも、畜舎の獣たちを全てしかるべき場所に連れていくことを決めたのは、ずっと前のことで。だから、今ここに彼女が立っているのは、ただの最終確認でしかなかった。
波打ち際に立って、砂浜に残った自分の足跡を一つずつ消してゆく。そんな感覚でもって日々を費やしてきた。"ゲーム"が終わったあの日から。この場所も、だからもうすぐ波がさらってゆく。
畜舎の中から入り口を振り返ると、裏校門へと続く階段が見えた。日当りのいいそこは、以前ならよく二人の高校生の姿が見えたものだった。彼らの会話が時折降ってくる、そんな中で、自分は獣たちと戯れていた。ふと声が賑やかさを増したのに気が付いて振り向くと、さらに二人、増えていたりもした。
――今はただ、埃っぽいような午後の白んだ光が佇むのみで。
座り込んでノートへの書き物をしている黒髪の先輩。そして、その横を構われたがりの猫のような様子でうろついている猫っ毛の先輩。前者はともかく、後者は人間にしては奇怪な動作をしていることも多かったけど、あの先輩の場合はそれが日常なので、特におかしいとは思わなかった。
全ての始まりとなった、泊まり込みでの人狼ゲームを企画した梅ノ木。なんだか細かい図がびっしり書き込まれたノートをいつも抱えていた。あの人はもういない。
いつもゲームの報せを携えて現れる、落ち着きのない夏野。あの人は人間の中にいるとやたら動作過多で騒がしい挙動の印象だったけれど、動物の近くにいると驚くほど穏やかになるのを覚えている。彼もまた、もういない。いなくなった。他にも、たくさん。
海辺。波が打ち寄せ、汀立つ足元から、砂が水が全て引いていく。根こそぎ引いていく。
その感覚が誰よりも親しく傍らに侍るようになったのは、彼らがもういないのだと知ったあの日からだった。もしかしたら、あの日までは誰かが近くにいたから気付かなかった類のものなのかも知れなかった。
だから、牧本は海に向けて歩くことにしたのだ。決心というほどのエッジを現在の連続面に突き立てるわけでもなく、ただ、緩やかな時間の中で、連続的に確定された流れをもって、彼女は終わりに向けて歩みを進めていた。いつも人狼ゲームの中でそうしていたように。一つずつ、盤面を確定させてゆく動きで。
どこに行くか、というのは実はあまり考えていなかった。
畜舎の鍵を無人の教員室に返却した後、校舎を出てなんとなく目に入った。それを理由にして、牧本は山に入り、今こうして人気のない山道を歩いている。山は好きだ。これまでにもよく歩いた。夜に行動する昆虫を捕まえるための仕掛けを携えていたこともあったし、野生動物の痕跡を拾いに石膏などの小道具を背負っていったこともある。野生動物に危うい出くわし方をすることもないことはなかったけれど、今日まで無事にやり過ごすことは出来ていた。山に入ることを必要以上に恐れずに済んだのは、きっと幸運なのだろう。だから今日は、鈴は家に置いてきた。
ひとまず登ろう、と決めた。あんまり思考に力を入れるつもりはない。
終わりゆく夏の中ではあったが、山道は涼しかった。杉の木の森は光を落とさない。熱もまた同じだ。黙々と道を進む。湿り気のある腐葉土が足を穏やかに受け止めた。いつも選ばない道をあえて選んで、深く山に分け入っていく。
不意に、踏み込んだ足元がぬめった。岩の表面を薄く土が覆っているだけの状態に気が付かず、土の層ごと踏み滑ったようだ、と気づいたのはずっと後のこと。入れた力ごと踏み込んだ足は後方へ滑っていって、重心を傾けていた分逆足も支えきれず、対応しきれない上体が地面に崩れる。蒸した水の気配のする土に、牧本は顔から突っ込む羽目になった。左足に灼熱感。束ねもしていない髪が乱れた。
肺から叩き出された呼吸を取り戻すのに、いくらかの時間がかかった。
じんわりとにじむような痛みは胸に。痛痒にも似た痛みは左足のすねに。山歩きするような恰好では来なかった。足の痛みを覆うように、じんわりと滲む感覚が生まれた。
動きたくないな、と思考が淀む。目を閉じる。このまま体を横たえたまま夜と朝を繰り返していけば、地衣類と菌類の抱擁の果てに、腐葉土に沈んだ肉喰らいのちいさなものたちの群がりの果てに、ゆっくりと戻って行けるのではないか。そんな夢想が脳裏をよぎった。そして少し可笑しくなる。一体、どこに戻るなんて言うんだろうか。
少しだけ、遠い日にみた何かが瞬いたような、そんな気がした。
…………。
ふと、耳に届くものに牧本は気づいた。
今までどうして気付かなかったのかわからないほど、それはくっきりとした存在感で彼女に迫った。
流水の音。せせらぎというには少し強い音。
倒れたまま横たわっている自分が不意に気恥ずかしくなって、牧本は立ち上がった。スカートについた落ち葉を払い、全身を確かめる。虫もヒルもついていない。たぶん。よかった。
視線を巡らせると、木々の向こうにキラキラと輝くものがあった。どうやら、少し降りたところが沢になっているらしかった。木々の群れの狭間から、下れそうな場所を探して降りてみることにする。
切り立つ崖を片側にして、ごうごうと谷川が流れていた。白っぽい石が散る河原を歩いて、水際に向かう。岩に手を置いて覗き込んだ水面には深さがあって、牧本は少々の警戒を得る。
靴と靴下を脱いで、河原に置いた。転んだ足が気持ち悪いので、陽でぬくまった岩に腰かけて足を沢水につけることにする。つま先を入れてみると思いがけず流速が早い。そのまま足を差し入れると、火照った足、傷口を水の冷気がこそげていって、反射的に牧本は岩陰の方へ足を寄せた。
流れが穏やかな位置で足をたゆたわせる。やがて土と固まった血液が洗い流されると、薄く擦れた傷口が露わになった。こうして洗ってしまえば、傷口はごく薄く引っ掻いたような赤い筋を示すのみで、ごく他愛もないようなものに見えた。
つま先を引き上げて岩の端に乗せる。白い岩の上を、影が滴るように水が濡らした。
傷。血。そうしたものがふわりと呼び起こしたのは、やはりあの日の記憶だった。
これも傷なのだろうか。だとしたら、今自分の傍らにあるものは、自分の足元から全てを沖合に流し去っていく空虚は、傷の上に盛り上がった血の珠でしかないということになる。けれど、この虚ろを自分から拭い去るようなものなど、今の牧本にはとんと思いつかなかった。
一体何があれば可能だったんだろう。
かつての日々、最も近しく、慈しんでいたのが鳥獣たちであったのは確かだ。だけど、それすら自分から遠ざけることを決めた。彼らですら留められなかったのならば、あとは何がよすがにできたのだろう。
あの日を共有した人々はいる。
高校生の女の先輩。畜舎の世話をしている時、よく裏の階段に来ていた二人の同級生の。
他校の生徒の女の子。同年代かと思ったら年上だった。一つだけだけど。
同級生の女の子。最後まで、ずっと前を向いていた。向けさせた。
けれど、彼女たちの姿は、いつの間にかそれぞれ見失っていて。空いた机、消えた名札、そういったものに、ああ、やはり流されたのだとそう思った。
その他に、誰か、何かあったのだろうか。
ありえた、のだろうか。
思考はぽつぽつと流れる。岩にあげた足先から、黒く滴るように水が流れていく。
ふと日が陰るような気配を感じて、視線を上げた。
「……あ」
息が止まるような思いがした。
夏野サン、と口の中で言葉が無力に転がる。
猫っ毛の髪を赤いヘアピンで止めた少年が、そこに立っていた。肉付きはあまりよくないけれど、背はすんなりと伸びた、やや年長の相手。普段なら柔和な顔が、なぜか眉をきつめに寄せた顔で牧本を見ている。
牧本は何度か目を瞬かせる。サラサラと川の水音が聞こえる。
「牧本サン。何やってるのこんなとこで」
彼は少し怒っているように見えた。
珍しいな、と思う。この人が見せる感情の多くは快か嬉か喜で、攻撃に結び付くようなものはほとんど見かけなかった。威嚇というものをほとんど感じないで済むおかげで、近くにいても緊張しないところが好ましかった。
「夏野サンこそ、」
何か忘れているような気もしたけれど、怒られる心当たりなんてなかったので牧本は肩をすくめた。夏野は表情も緩めずにこちらに一歩踏み込むと、
「私より君のことだよ、ほら、顔にも泥がついてる、」
ぶすくれた顔のままで、夏野が牧本の頬についた泥をぬぐった。どうやらハンカチを持っていないらしいのも、この人らしかった。なんだか珍しい気の回し方で、その表情のせいか、抗いがたいものがあった。
既に乾きかけていた土くれが彼の指先で払われるのを感じながら、奇妙に冷えているな、と思う。こんなところで水遊びでもしていたんだろうか。この人が相手だと、常識というもので判定が出来ないから困る。
「夏野サンは。どこかに行くところだったですか」
礼を言いがてら、尋ねてみた。何か言葉を続けないと、この人の表情は緩まないような気がして。
夏野が一人というのも珍しかった。同級生の人たちと騒がしくしているのがいつもの風景だったのに。珍しいことが重なるようだ。
夏野は一度口を開き、けれどためらった。
「ん………んん。牧本サンに声掛けに来た、かな」
言葉の歯切れが悪い。人狼の時は、役職騙りだろうが村騙りだろうか、ノリノリで宣言と発言を進めていくタイプだったのに。思考を重んじるところは確かにあるが、言葉を作ること自体は直感的な人だと評価していたから、彼のそんな言葉運びは奇妙な印象を与えた。
「声」
「うん」
どうにも声が苦い。相手が情報を出さないので、牧本の方は頭をひねるしかなかった。
思いつくのは、
「もしかして、次の予定、決まったですか」
いつものゲーム。
それは、高校生組が、だいたい主催する企画会だった。人狼だの、ボードゲームの類だので、日が暮れるまで遊んだ。何度も。泊まり込みで遊んだことも、確かあった、ような。
なにか頭の内側で瞬くものがあったようだけれど、牧本はそれに気づかなかった。もしかしたら、自分からそれに蓋をしたのかもしれなかった。
「まあ、そんなところ。ただね、」
夏野が頬に指をあてた。彼にしては珍しい、それは怖れに似た表情だった。
夏野を見上げたまなざしが、彼のものと複雑に絡んだ。夏野の瞳はいつになく底の知れない色をしていた。この人の目はこんな色も映すことが出来たのか、と思う。
「今回は私だけしかいない。それでも、来る?来てくれる?」
「ん。あい」
なんでそんなことを尋ねるのに、この人はこんなに言葉を重ねたんだろうか。
疑問を覚えながらも、声はすぐに了承を伝えていた。
ふたりだけか、だったら。
「人狼。今度は出来ないですね」
夏野がくすりと苦みをもって笑った。
それでも、目許に拭いきれぬ憂いがあった。だが、彼は、
「他の連中もまたタイミングが合えば遊べるよ。みんなそのへんにいるし」
「ですか」
そうか、みんないるのか。
彼らはどこにも行ってなかったのだ。いなくなったわけではない。置いてかれたわけではない。彼の言うとおり、ただ、ちょっとタイミングが合わなかっただけ。
すとんと落ちた言葉に、胸が柔らかく緩んだ。それは、とても久しぶりの感覚だった。
「じゃあ。行きましょ」
なぜだか、夏野はためらっているようだった。
「牧本サン、本当にいいの」
「二人でも、オセロとか。出来るですよ」
行くんじゃなかったのか、と疑問して牧本は首をかしげた。
かえれなくなるよ、と彼の口許が動いた気がした。
ほんとうにそれがきみののぞみなの、と。
またこの人は変なことを言う。いつも変だが今日も変だ。つまり、それはいつも通りということだ。少し結論がゆがんだ気がする。ええと。この人はいつも変だが、今日の変は少し変の形が違うようにも思える、ということだ。整理した思考が少しだけ引っかかったけど、すぐに流れ落ちた。
だって、帰る場所は、全部片づけてきたのだ。
そして、この人が誘いに来たのだから、これから遊びに行くのだ。
だから、
「行こ。です」
夏野がふうっと息を吐くのが見えた。
それは感情を読み解きづらい、複雑な表情だったけれど、牧本は漠然と猫を連想した。いろんなものを充足した後の、胸いっぱいに満ち足りを味わっている猫の顔。猫にしては、ちょっとかげっていたかもしれないな、と感想をつけたす。人間は難しい。
うん、うん、と何度か己を励ますように頷いていた夏野が、一つ大きく頷いて。
「分かった」
手をこちらに伸べてきた。
彼がこんなことをするのは初めて見た気がするのだけど、それでも、それがとても自然なことのような気がして、
「あい」
だから、牧本は差し伸べられた手を握る。
途端、ぎょっとしたような顔をするので、何か言いたいことがあるのかと夏野の顔を見た。
「ん。あ、いや。いいの。いいんだ。それで」
「夏野サンはいつも変だけど、今日はおかしい」
人間がしおれるのを、牧本は目の前で観測した。
率直な感想だったのだけど、少し悪いことをしたか。だからというわけではないけれど、牧本は伝えるべきことを伝えることにした。
「夏野サン。あのね」
少し手を引く。
果たして、しおれたままの夏野は薄目ではあったけれどこちらを向いてくれた。
「ありがと」
夏野がわずかに目を丸くしたようだった。
来てくれてありがと。
何かのついででなくて。
一人だけでも、遊び相手に誘ってくれて。
一人のところに来てくれて。
迎えに来てくれて。
ありがと。
ゲームという枠を取っ払うと、どうにも気持ちのままの言葉がまとまらない。これは、本当はあまりよくなかったのかもしれないな、と牧本は初めてそう気づいた。言いたいこと、伝えないといけないと思ったことはたくさんあったはずなのに、いざ口を開いてみると、四文字の言葉にしかできなかった。
伝わるだろうか。伝えられただろうか。
目の前の人は、はっとしたような様子でこちらを見ている。不安が生まれた。けれど。
「うん。私こそ」
夏野が笑った。
その表情からは、影のようにまとわりついていた憂いがほどけ落ちていた。
「私はね、君が手を取ってくれて、すっごく嬉しかった、とても、嬉しい」
ああ、これだな、と思った。
大きな犬のような顔で笑う。名前の通り、夏のような。虚ろな海が遠くなるような。ひっぱられる。その中に、たくさんの意志があった。牧本にも読み取れた。
牧本の傍にいられることを喜んでいる。
傍にいてほしいと望んでくれている。
言葉を重ねられたことを。
手を取って応じられたことを。
これからも言葉を交わしていけることを。
彼は喜んでいる。
そうか。出来ないことは、ないのだな。牧本は目を開かれた思いで目の前の少年を見ていた。
もう何もないと思っていたところに、掴めるものがまだあった。ただ枯れるように、潮に引かれていくことを選んでいた自分にも。
これからはもっと伝えることを考えられるかもしれない。さっき、気づけたのだから。
何も終わらない。何も終わらず、きっと続いていく。
きっと。
彼が行こう、と手を引いた。
牧本はこの辺りの道を知らない。だから、案内を、と夏野に従って足を踏み出した。
夏野の手を握る。彼も握り返した。強く。
――だから、大きな水音が生まれたことに、上がった飛沫に、水の冷たさに、牧本はとうとう気づかなかった。
気づかないまま、夏野とともに、牧本は傾き始めた日の中を走って行った。山の稜線を渡り、渓谷を飛び、梢を揺らし、風と共に。いつのまにかあらゆる輪郭を失って、ただ清かなものとして飛んでいた。それでも、つないだ手は決して離れることがなかった。
……夏の形見のようなギンヤンマが、二匹連れ立って飛んでいる。
川のほとりには、もう誰もいなかった。少女の片方の革靴だけが落ちていた。
川の音は変わることなく、ただ、時折少年少女の笑う声のようなものを響かせて、どこまでも流れていく。
ギンヤンマはふっと風の中に止まり、そして、川上へと鋭く羽ばたいていった。
<END>
初出:7/18/2014
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