夕映えは思いがけないほど明るかった。いつもの駅から環状線で数駅乗り過ごし、指定された方面の改札を抜ける。なじみの薄い駅前の雑踏を泳いだ。
駅の北口、繁華街の方面。まだこの時間では酔客もおらず、買い物帰りの姿もちらちらとうかがえた。コンビニの角で、高校生と思われる夏服の一団とすれ違う。高校を卒業してから感覚が随分と失せたけれど、どうやら彼らにはまだ学校のある時期らしい。七月の薄明るい、少し気のゆるんだような金曜日、その十八時半。
携帯電話で店の地図を確認する。路地を曲がり、店に入った。
待ち合わせの相手はすでに着いていたようで、背広の上着を脱いだシャツ姿が奥の席からこちらに手を振った。高校時代の同級生は、以前よりもシャープな印象が増していた。互いに大学を出て数年、彼は営業職になったと聞いている。
「すまん、津田。遅れた」
詫びを入れる。挨拶の言葉を取り交わし、注文を決めながら、梅ノ木はネクタイを緩めた。日暮れとはいえ七月の陽気で汗ばんだ体に、首筋から冷えた空気を入れる。
注文後さして間をおかず運ばれてきたビールと、お通しの一盛りの枝豆で、色気も出さずに始める。枝豆は甘く、夏の夜の味がした。
「枝豆うまいと店のアタリ感あるよな」
「それな」
話題は互いの近況に移る。ほどなくして料理も運ばれてきた。揚げ物を見て、梅ノ木が思い出したように、ああ、と声を上げる。
「この間尾崎の勤め先行ったよ。ふやけてないかつ丼美味いね、俺かつ丼これまで食わない主義だったけど、あれはアリかもって思ったわ」
「お前はまだすすき屋のかつ丼から世界を広げてなかったのか。世はまさに大後悔時代」
「初めてかつ丼て食い物を知ったのがあそこだったんだよ! 昔さ、尾崎がかつの卵とじについて講釈してたけど、あれマジなのな。食ってる間ずっとサクサクだったわ」
「よかったじゃねえか。ソースかつ丼の外にも世界はあるんだよ梅ノ木」
「いや、まだソースかつ丼の世界とふやけてないかつ丼の世界を並行接続するには抵抗がある。もっと試行を増やさないとな」
しかつめらしい言葉に、いいからかつ丼食えよ、と津田が笑う。梅ノ木も笑った。高校時代を思い返すようなやり取りだった。酒が進む。
津田が、布団のような厚みのだしまき卵を箸で裂いた。
「そういや、東雲との式っていつやんの。夏野が気にしてるって」
「いま時期詰めてる。俺ああいうの六月がいいのかって思ってたけど、透に値段表とカレンダー突き出されて諸々議論する羽目になった。難しいもんだね。夏野、あいつ今どこにいんの? こないだ新刊の南米旅行記送りつけてきたっきり、まるっと連絡よこさないんだけど」
「春まではインドに行ってたらしいけど、今は南アフリカのどっかにいるってよ。俺も国名忘れた。お前もそんななら、あいつにホットライン通じてんの牧本だけっぽいな……たまに連絡とってるらしいわ。感染症とか検疫関係とか夏野が知りたがってるらしくて」
「あー……牧本獣医の卵だもんな、その手の話か。えーと、あの子……卒業いつになるんだ? 来年か?」
「六年制だからなー、そんなもんじゃねえの。大学っていや、空閑さんもまだ大学にいるん?」
「ん。博士進んで研究してるって言ってた。もしかしたら本出せるかもって嬉しそうな連絡貰ったなァ。今はフランスに出張中だと」
ジョッキが空いたので、新しい酒とつまみを注文する。
「市瀬の近況知ってる? 先日仕事先で鉢合わせたんだけど、とうとう一人称が私になってたぞ」
「あいつももう社会人なんだよなあ……俺しばらくあいつに会ってねー、雰囲気変わってそーだ。出版社に入ったんだっけ? 俺ずっとあの子理系だと思っててさ、研究者志望だろうなーってふんわり思ってたからびっくりしたわ」
「それはさすがに気づこうぜ。あそこ、理系雑誌に強いとこなんだ。『担当は本命と違うんですけど、ここでがんばって数学雑誌に回してもらうんですっ!』ってフィボナッチ数列で気合い入れてた。変わんねえよなあ」
そうだなあ、と笑いがこぼれた。図書館司書になった清水の近況、福祉学を修めた後小路が海外を飛び回っている噂、懐かしい連中の話は引きも切らない。
雰囲気もほぐれたと判断した梅ノ木は、酒で口を濡らすと、いつ切り出したものかと考えていた本題に入ることにする。身をわずかに乗り出し、なあ、とクッションを置いた。
「お前チュン子ちゃんとはどーなのよ? もう結構な付き合いだろ」
「あー」
津田はあいまいな声を漏らして目を泳がせる。
彼の様子には、単純な含羞というには内側から満ちるような幸福感があって、問いをはぐらかそうとしているよりも、正しい言葉を選ぶのに迷っているだけなのだと梅ノ木には容易に察せられた。そして、その様子から、津田がまさに今告げようとしていることを、おそらくは誰よりも先にそれを聞けるのだという事実を、とても幸いに受け止めた。
そんな梅ノ木の直感に誤りはなかった。
緩みの増した表情で津田が口を開く。
「こないだ親御さんとこに挨拶に行った。親父さん厳しいってのはだいぶ前から聞いてたから、スッゲー緊張したんだけどな、」
照れくさげな表情の中には、十年に近い年月を越えてきた恋人たちの感慨もあった。良しにつけ悪しにつけ、それまでに確かに二人にはいろんなことがあったのだ、そして、彼らはそれを過ぎ越してきた。梅ノ木もエピソードの幾つかは知っている、そして、知らないこともいくつも。
梅ノ木はただ、何度も相槌を打ち、祝福の言葉を重ねた。この喜びをそれ以上に表わす方法などなかった。情感の強い人格とは自身を評価していなかったのだけど、酒の効能か、目頭が熱くなるような感覚を得る。
ごく当たり前のようで、それゆえに尊い幸いが、そこにあった。
だから、
「――津田ァ、」
梅ノ木はここで、友の名を呼んだ。
鋭さのある面差しを、今は柔らかく緩めた津田が眉を動かす。
「なんだよ」
「あのさ。これ、……夢だよな」
僅かな沈黙があった。
エアポケットのような時間の中、津田の目が揺らぎなく梅ノ木を見ていた。
結婚を控えた者の幸福な表情は褪せ、ただ、あらゆる色の枯れた、波立たぬ海がそこにあった。
「――ああ。そうだ、夢だよ。俺達は、こんな風には続かなかった」
瞬間、周囲にあったあらゆる種類の喧騒が沈んだ。光が失せる。あらゆる舞台装置が消えた闇の中に、津田と梅ノ木、二人だけが残る。
僅かに青ざめた互いの輪郭だけが、奇妙にはっきりとしていた。
「市瀬は死んだ。初日にプールに沈んで」
津田にしては珍しいような、それは事実を確認するだけの淡々とした口調だった。
「星見夜は死んだ。初日にお前に殺された」
その時、彼の声にどんな響きが含まれていたのか、梅ノ木には分析できなかった。
「俺は死んだ。二日目に空閑が殺した」
梅ノ木は目を伏せなかった。
「梅ノ木は死んだ。二日目に俺が殺した」
視線を合わせたままの津田は平静だった。
「尾崎は死んだ。三日目に窒息して」
「夏野は死んだ。三日目に空閑に殺された」
「空閑は死んだ。四日目に、……分かってるよな、お前も」
覚悟こそしていたが、その時だけは、梅ノ木は自分の眼差しが揺れなかった自信がなかった。そして、それを津田の前で隠しきることが出来たのかどうかも。
「ああ。知ってる……覚えてる」
いつの間にか、世界は変転していた。
午後の金色の光が降り注ぐ放課後の教室。無数の生徒の靴底に磨かれてきた床は、深い飴色に輝いている。若干の乱れを織り込みつつも整然と並んだ机、置き去りにされた教科書類、夏風に揺れるクリーム色のカーテン。窓の外、校舎に沿って植えられたイチョウの並木は、この季節に緑も鮮やかで。
横に座っていたスーツの青年は、いつのまにか白のカッターシャツと灰色のズボンに装いを変えていた。見覚えがあるどころではない、それは夏服だった。
机に腰かけて梅ノ木を覗き込む目元には幼い柔らかさが戻り、ナイフで削ったようだった頬の輪郭には若いまろみが宿っていた。
高校二年生、あの夏の日の津田隼人がそこにいた。
「そっか」
そして梅ノ木もまた、かつての姿そのままに。
ただ、今は、かつて互いの間にあったはずの笑みと笑い声だけがない。
ナイフで切って落とせるような緊張が佇む。
「忘れるわけ、ないだろ」
風がさらさらと吹いていた。髪を揺らして、夏の大気が通る。
梅ノ木は津田の瞳にの奥に凝ったものを再び見た。海。終わりのないものに空しく手を伸ばし続けた屈託がそこには凝集し、波のない海を作っていた。津田らしからぬもののようでもあった。だが、それが津田の中に生まれざるをえなかった理由を、梅ノ木は知っていた。
そしてきっと、津田も見ていた。梅ノ木の中にある、ただ一人を除いて打ち明けられなかったものを。タールのねばつきをもって沈んだ、彼の恐怖と孤独の名残りを。そして、それゆえに生まれたあの日に至る決断の、繭を潰したような重たい染みを。
視線をゆるやかに絡めたまま、二人の間で言葉が何度も生まれかけ、だが、その全ては空気を揺らす前に消えていった。
彼らの生み出しえぬ言葉よりも、梢を鳴らしもしない夏の大気の方がはるかに雄弁だった。
「あのさ、梅ノ木」
梅ノ木が何度めかの言葉を口に昇らせるのに失敗した時。
津田がとうとう口火を切った。
息を吸う、整った形の眉が沈痛にひそめられた。
風がイチョウの梢を揺らしてさざめく。そして、無風。
「俺は、――俺は、お前を許すよ」
凪いだ時間の中に言葉が落ちる。
声には深い苦味が伴っていた。形の良い顎がわずかに震えていた。
「俺にはお前が何を抱えてたのかも、何を考えてたのかもわからん。お前と俺、結構付き合い長かったよな。でも、お前があれだけ一緒に馬鹿やってきても言えなかったことなんだろ、だから、俺が今更聞いてもわからねえんじゃないかなって思ってる。ああ……お前の抱えてた重さまで否定するつもりじゃねえぜ」
眼差しは梅ノ木から離れ、津田はわずかに目を伏せた。
「それに、俺がお前を憎まなかったとは思うな、お前を……お前らのやったこと、俺が恨まなかったもんか。星見夜のこと、それに、市瀬のことも、」
続ける声の中に軋みが混じる。彼は想起していたのに違いなかった。
星見夜、引っ込み思案だった神社の少女の甘やかな声を。
市瀬、怜悧に数式を愛でる少女の端然を。
だから、梅ノ木はそれに気が付かない振りをする。津田の抱くその感傷は、彼には触れる資格のないものだったので。梅ノ木だって気づいていた、星見夜を構う津田の、端々に萌していた柔らかさに。
津田は少しだけ口を閉ざした。意志に反して溢れかねないものを、暴力的な衝動を、それは食いしばる顎の動きだった。
言葉を待つ。待たねばならない。
く、と小さな呻きが聞こえた。一瞬の瞑目、そして強い意志の力をもって、津田の頬から緊張がほどける。それでも、生まれた声は軋みを伴っていた。
「……でも、俺も死んで、お前も死んで。未練たらしくこんなところに漂っててさ」
遠くで蝉が鳴いていた。長い間を土の中で過ごす虫の鳴き声。
「それなのに、これ以上を呪って、憎んで、俺はどこに行くっていうんだ。もう戻れないってのに」
夏の残響が聞こえる。
もう終わりを迎えることのない夏の残響。
「なあ梅ノ木」
津田の声は思いがけず穏やかだった。
「俺は今、よくあの頃のことを思い出すよ。高校生活。休み時間のたびにゲームばっかやってたな、インディアンポーカー、トランプ、人狼……お前ら馬鹿なのに変に頭回るから俺負けてばっかだった気がすんな、でも楽しかったよ、だってお前らアホなんだもん! 早弁して、補習受けた帰り道ですすき屋寄ったりしたな。知ってたか、あそこうどんは結構うまいんだぜ? 俺は結構好きだった。安いしな。夏野が転校直後速攻補習に交じってきたの、明らかに事故だったよな。後で呼び出して氷食いに行く予定が、先に教室で座ってんだもんな」
津田が一つ一つ思い出をほどいていく。
梅ノ木にも見えていた。
忘却した筈の教室の喧騒が耳に届く。それは静かに潮が満ちるように。
昼休みなのだろうか、窓辺で談笑する三人の少年たち。
からかいの言葉を受けて、大げさな動作で噛みつく少年がいる。その表情に険はあれど負の要素はなくて。
対照的に泰然とした佇まいの黒髪の少年が、相手の言葉をさらりといなして笑ってみせる。顕れた感情には快が強い。
そんな二人に囲まれて、席についたまま二人の様子を眺める大柄な少年の目が穏やかに凪いでいる。が、不意に両脇から水を向けられて、慌てて言いつくろう羽目になる。
一連の騒動を見て、少し離れたところで見ていた少女がけらけらと笑う。
そこにさらにもう一人、賑やかな声が加わり。
追憶はさらなる追憶を呼ぶ。教室の風景はゆらゆらと変化し続ける。
終わらない。思い出は終わらない。
過去を数える津田は記憶にある通り不器用な語り口で、時折話の時間軸が前後することもあった。思い出したように付け加える言葉も多かった。言葉選びに迷い、つっかえることすら。
だが、それだけに、津田の意志は率直で、雄弁だった。
無数の過去の断片を幻燈のように躍らせながら、津田が苦笑する。
「……口に出すと、くだんねーことしかやってなかった気がすんな。まあそうなんだろうな。だけど、だからわかるだろ」
津田は腰かけていた机から立ち上がる。あの遠い日々と同じように、机がかったんと音を立てた。机の中で教科書の群れが揺れた。
津田が腕を開く。
「ここまで来て、それでもどうしようもなく俺が懐かしく思うあの時間の……その中に、お前もいるんだよ。お前が、いるんだよ」
そして一歩を踏む。
「――だから、俺はお前を許す。梅ノ木」
梅ノ木は半歩下がりかけて、かろうじてとどまった。
津田は梅ノ木を見ている。
「いいのか、それで」
「その代わり、俺はお前が抱えていた痛みを聞かない」
「痛み」
「痛かったろ。お前の選択で得た傷は」
梅ノ木は笑おうとした。
「都合のいい欺瞞だぞ、俺は、」
言葉の半ばで、津田が不意に、どうしようもなくおかしげに息を吐いた。
梅ノ木のへたくそなそれよりも、よっぽど上等な笑みだった。
思い出す。飽きずに何度も繰り返したインディアンポーカー。
津田は弱かった。揺さぶりには動揺して、挑発したら乗って。心理戦でもボロボロだった。
だが、たまに、そう、時たまにあったのだ。
ブラフで引かせようとしても、はったりで勝負を続けようとしても。普段はあっさりとこちらの意図に引っかかって自爆するくせに、場のカードを見抜いたように決して引かない時が。
「馬ァー鹿、」
そして、尾崎も夏野も、梅ノ木もまた、そういう時の津田には勝てなかった。
津田が今浮かべる笑みこそ、そういう時のものだった。
津田がさらに距離を詰める、後ずさった梅ノ木は背後の机にぶつかり、それ以上逃れることはできなかった。津田が梅ノ木の両肩を掴み、眉を立てた笑み顔で彼の瞳を覗き込む。逃がさない。
「騙されねえよ。俺は知ってる、お前がさっきまで見てた夢もな」
夢。
津田も、梅ノ木も、その他、あの日"ゲーム"を共にした彼らもとうとう到達することのなかった未来。
当たり前のように何度も日が昇り、暮れる。狼のいないごく平凡な朝と昼と夜を駆け抜けていく、特別なことなんて何一つ書かれていないカレンダーが何枚もめくられていく。あの午後の光さす教室からやがて11本の道が伸びて、時に離れ、それでも途切れず、誰も忘れず、気が付けば再び交わって。思い出したように触れて。もしかしたら、共に絡まり合いながら伸び続けて。いずれ新しい枝すら、それぞれに。
それはきっと、人狼の存在とあの"ゲーム"さえなければ、相当な蓋然性でもって現実となりえた未来だった。
だが、梅ノ木の視点では決して発生しえなかった可能性だ。
選びえず、叶わず、それでもなお焦がれ仰いでしまうもの、求めてしまうもの、それを示す名もまた。
「とうに選んでいた筈のお前だって、あの未来を夢見ずにはいられなかった――俺はそれを見た、だから俺はやっとこの道を選ぶ、選ぶ、選べる。だから、お前もこうしろ、あの五日間を選んだ痛みを、選んだことで生まれた全部の痛みを、ずっとお前は抱え続けろ、忘れんな、その上で、俺は許す。俺は許すんだ。お前を。梅ノ木」
わかるか。
わかるだろ。
梅ノ木をごく間近からとらえた、それは人間の眼差しだった。
全ての起点となった日。人ならざるものを抱え、己が生きるにしろ死ぬにしろ、結局は決別せざるを得ないと梅ノ木が判断した存在の、眼差しだった。
目をそらすなと津田の目が言う。
"狼"を捉えた"占い師"の眼差しで。
答えろと津田の目が言う。
応えろと、全ての痛みを抱えたまま、津田の目が言う。
狼の喉元を晒させ杭を打ち込む、その鋭さで逃げることを許さない。
「津田、俺は」
最期の一日を思い出す。喉元を抑えられた"狼"梅ノ木の最期の日。
あの時梅ノ木は――"あいづち"は必死だった。臓腑が絞られるような緊張に耐えて言葉を重ね、注目を集め、ひたすらに説得を重ねた。全ては"占い師"津田を確実に殺害するために。親友を殺害するために。
「俺は」
大事なものがあった。たくさんあった。
人狼の"あいづち"、人間の梅ノ木一太。
"もくば"、幼馴染、親友、同級生、ゲーム仲間の少女たち。どうしようもない日常。これらを捨てなければならないのなら、決めなければならないのなら。そう、確かに思ったのだ。選択を迫る、あさましいまでに根源的な餓<かつ>えの中で。
息が辛い。酸素が薄くなったように胸が詰まる。
それを見越したように、目を細めた津田が鋭くとがめた。
「間違えるな、俺はお前を許す、許すけど、その代わりにお前に苦しみ続けろと言ってる、死んだ今もなお」
「――……分かってる、」
梅ノ木はゆるく頭を振った。
分かっている、繰り返す。
思考がやけに喉に詰まる。伝えたいことはたくさんあった。表すべき想いもたくさんあるように思った。だが、言葉はあまりにも不便で、何もかもが不適合なように感じられた。ようやく、絞り出すように言葉が生まれる。
「なあ、津田。生きてるってスゲーことだったんだな」
「遅せえよ」
梅ノ木から手を離した津田が、険もなく笑った。
つられて梅ノ木もほんの少しだけ笑った。
津田が歩き出す。ぼんやりとその背を視線で追いかけると、教室の扉を開けて振り返った津田が晴れやかに笑った。
「何してんだ、行こうぜ。待ってる連中がいる」
ああ、この顔も知っている。
補習が終わってさっさと教室を出ていくときに何度も見た。分かりやすい奴だと思いながら、自分もきっと似たような表情で続いていた。
是と声を返して梅ノ木も戸口に向かう。蝉の声が聞こえる。夏の風が吹いて、さざ波のように梢が鳴っていた。
いつかのように、放課後の廊下に靴音が落ちる。
やがて笑い声が聞こえ、そして、教室から遠ざかって行った。
少年たちは再びかつてを始める。
もはや褪せることのないイチョウの緑の中、かげろうめいた、永遠の夏の中で。
<END>
-余談-
「他の奴にはもう会ったん?」
「あー………夏野に会った」
「殴られた?」
「背骨まで消し飛ぶかと思った」
「三日目がやばすぎたかんな、笑って耐えてやれよ」
「笑ったらそれこそ殺されるわ」
「俺ら死んでるじゃんよ」
「ホント、馬鹿ロラされなくてよかったよな……」
「東雲が言い出さなくてぶっちゃけ安心した」
「マジそれな」
初出:7/13/2014
http://www.twitlonger.com/show/n_1s2fif7