サクヒナ・フーロゥ、兎の魂を継ぐ娘、薫る春風亭を定宿としたかつての冒険者。
あの日彼の命を奪った後の、彼女の足取りは杳として知れない。
「今ひとたびの永訣」
それは夏もほど近い、雨のそぼ降る時節のことだった。
大街道から外れた小さな村に旅人が訪れた。蕎麦と麦を育み、羊を養い冬を越える、そんな村である。旅人の訪れは珍しいものだったが、彼の行動が極密かなものであったために、村の中にもその訪れに気付いた者は少なかった。旅人と相対したのは僅かに道を尋ねられた者だけであり、そしていくらかの銀貨を握らされた村人は、その口を静めることを選んだのだった。
旅人は、示された麦穂の狭間を進んでいった。深く頭巾を下ろし、雨にまぎれて進む彼が向かうのは、村外れの産婆の家であった。
産婆は在宅しているようだった。旅人は手にした旅杖で数度扉を叩いた。
家の奥から若い娘の声でいらえがあった。扉が開き、灯火の光が屋外にこぼれ出た。
応対に出たのは黄金色の髪を編んで長く垂らした娘だった。簡素な白布の服に、毛織の肩布をかけている。異郷の亜人であることを示す長く伸びた耳が際立っていた。
彼女は確かに旅人の求めて訪れた相手だった。
沈黙を保つ旅人に、産婆の娘がいぶかしげに誰何の声をかける。
旅人は彼女の前で頭巾を外した。
濡れそぼつ頭巾の下から桃色の髪がこぼれ、冷ややかな琥珀の瞳が露わになった。痩せた頬には笑みも浮かべず、旅人はただ産婆の言葉を待っていた。
産婆の娘が深緑の目を見開き、そしてゆるゆると笑みの形にほどいた。
「ああ――とうとう、来てくれたのね。キッシュ」
壁のフックに吊り下げられた外套は、その足元に水たまりを作っている。
招き入れられた小屋は、調度こそ少ないがよく整えられており、清潔だった。富裕ではないにしろ、安定した暮らしを穏やかに営んでいる。そう見てとれた。
家の主は炉端に吊るした鉄瓶から湯を取り、香草茶を煎じている。後ろ姿は記憶にあるよりも少しまろみを帯びたようだった。キッシュの記憶が確かなら、彼女の年は二十をいくらか越えた筈である。
産婆の仕事に加えて、薬草師の真似事もしているのだと言っていた。部屋の壁一面は棚となっていて、乾燥したホオズキの枝やその他、とりどりの種類の薬草が吊り下げられていた。キッシュにも名や効能が分かる植物もあれば、とんと見分けのつかないものもあった。薬草棚の脇には、野仕事道具なのか、古びた麦藁帽子が一つ掛けてある。
キッシュが薬草棚に視線をさまよわせるうちに、素朴な花めいていた香りが鼻先をくすぐった。サクヒナが湯気の立つカップをもって暖炉から戻ってきたのだった。そのうちの一つはキッシュへとサーブされ、
「蜂蜜を入れておいたわ。甘いのが好みだったわよね」
サクヒナはキッシュの対面に座ると、己のカップを手元に抱え込むようにして吐息を吹きかけた。湯気を散らすさまは、キッシュがこれまでに想定してきたものよりずっと静かで、彼女が重ねてきた時の年輪の穏やかさを感じさせた。
「今日は無口ね、キッシュ。それともこっちが本当のあなたなのかしら」
ふと気が付くと、サクヒナがこちらと視線を合わせていた。湯気の彼方で緑眼がしなやかに笑みを形作っている。
「私は貴方に何を語るべき?」
それはごく当たり前の村暮らしの女のような有様で。
だからこそキッシュは唇を噛んだ。
彼の中で言葉は暴風となって猛っていた。歳月をかけて醸成された、無数の問いかけと拒絶と怒りは今ここで混淆し、表現されるべきものを選ぶ手は混乱を極めていた。
キッシュの中の混沌を見透かしたように、サクヒナはそれ以上を問いかけなかった。昔のかしましい少女からは思いもかけない大人びた面差しで、彼女は待っていた。
暖炉の中で薪が爆ぜた。屋根を打つ雨音が密やかに世界を満たしていた。
何故。なぜ。
サクヒナは、微笑んでいる。言葉を促す様に。
キッシュが不自由の中からやっと言葉を拾い上げた。
「――どうして、そんなふうに笑える」
喉奥からあふれた声は低く、唸るように響いた。
サクヒナは少し驚いたようだった。
応えはそれでも速やかになされる。
「貴方が、来たからよ」
「俺が」
そう、とサクヒナが頷く。
「貴方が来たから。そうよ、その顔……私はそれをずっと見たかった」
サクヒナはカップを抱えていた手を離した。
彼女の深緑の瞳が、キッシュを見ている。
サクヒナの声は笑み零す明るさがあった。
緑瞳にあるのは、隠しようもない喜びだった。
「あのね、キッシュ。私は本当にあなたが来てくれて嬉しいの。貴方のその顔を見ると私、思い出せる気がするのよ」
卓に身を乗り出すようにしてサクヒナがキッシュの瞳を覗き込む。そこに凝る、ごく冷えたものに気づかぬように。
あるいは、その冷たさこそを望んでいたように。
「――思い出せる?」
問い返す声を他人のもののように聞きながら、首筋がさあっと逆立つような感覚がキッシュを駆け抜けた。椅子を蹴倒して立ち上がる、その音すら遠くのように。
この女は、何を。
何を言っているのか。
「あの人を。――ディーを」
サクヒナは、何も変わらなかった。
甘やかに響く声には怖じもなく、恋の陶酔が支配していた。
「あの人の全て」
ディーの声。
瞳こそ見えなくとも伝わる眼差しの気配。
体のこわばり。
そんなものの全て。
「私はね。あの日にディーを自分のものに出来たと思ったの。あの人の体、声、呻き、吐息、指先の動き、土を掻く爪、全部私しか知らない、私だけのものになったって。これだけあれば、生きてゆけるって」
かつては少女だった娘の声が、キッシュの中で過去を紐解く。
まだ夏というには浅い日だった。
約束をしたと言っていた。
野菜の収穫時期なのだと言っていた。
麦わら帽子を被って出て行った。
乱雑に野菜が散らばっていた、乾いた土が落ちていた。
その場所の血は乾いていた。
石があった、何に用いられたかは明らかだった。
這いずった跡があった。指をかけ爪を立てた跡があった。
彼は一撃では死ななかった。死ねなかった。きっと苦しんだ。
彼を語る上で欠かせなかったゴーグルは失われていた。土に交じった、硝子のごく微細なかけらがちかりちかりと瞬いていた。
キッシュには分かった。分かりすぎるほど分かった。
下手人は何も隠してゆかなかったし、己の務めとして観察の目を磨いてきた彼には何もかもが見えた。現場に共に駆けつけた宿の仲間が、押し隠すように泣くのもまた。
いつまでもこうしておくわけにはいかない、と彼を運ぶ手配をした。体はすでに固まっていて、彼をそれ以上傷つけないようにするのに苦労した。そうして触れた体は、熱が死んで久しかった。
固く温度のない体。やけに手が震えた。彼を運ぶのに、取り落としてしまうのではないかとすら思った。
そうしてようやくキッシュは彼の死を己の中のものとしたのだった。
彼はいない。
もういない。
いないのだ。
その認識が深く染み透った時、キッシュは己の過去から邪悪な笑いが響いたのを確かに聞いた。あらゆるものが、彼の手を通じて崩れてゆく。死んでゆく。滅びてゆく。お前が触れたからこそ滅びたのだ。お前のせいなのだと、お前こそが在るべきでないのだと、過去が、滅びた村が、死んだ縁者たちが、冬の森が、夜の森が、墓碑が、嗤う。そして唱和する。
奪ったくせに。
亡ぼしたくせに。
何故まだお前はそこにいるのかと!
「――でも違ったわ」
はんなりとした女の声が、立ち上がったままのキッシュを現在へと引き戻した。
見下ろす視界の中、サクヒナは眼差しを伏せて小さく首を振る。
「私、忘れてしまった。あんなに鮮やかだったのに、少しずつぼやけてしまって」
その姿は正しく悲しみだった。
何故お前がそんな顔をする。
奪ったくせに。
亡ぼしたくせに。
殺したくせに。
キッシュの過去が叫ぶ。
キッシュの声と共に。
「あの時の声も、あの人の姿も、少しずつなくなってしまうの。絶対に忘れないって思っていたのに!」
キッシュの思いをよそに、女は咲きこぼれるように泣き笑った。
キッシュは答えずに数歩を歩いた。
サクヒナは構わずに言葉を続ける。
「だから私、待つことにした。貴方を」
キッシュが傍らに立つと、サクヒナは彼を見上げて小首をかしげて見せた。
少しだけ見覚えがあった。
"うまくやったでしょう?"とこちらの反応を待つ、少しだけ挑発的な少女の仕草。サクヒナの仕草。
「私、見つけやすかったでしょう? 貴方が宿を出て旅に出たのは知ってたわ。私にも目はあるのよ、貴方が使ったように」
「賭けだな」
キッシュは短く斬り捨てた。
「そうね。でも勝ったわ」
サクヒナも端的に応じた。
「それで、お前は」
サクヒナから見えない位置に隠した利き腕が、秘めておいたそれを掴む。
彼女はそれに気づかないのか、己の言葉に溺れるように、
「幸せよ。貴方が温かい場所を棄ててきたことが。あなたが"その"決断をしたことが。
だから、私は、ディーを殺した私は、今、とても幸せよ。
キッシュ、ねえ、貴方は?」
緑の目が、邪悪な緑の眼差しが笑い。
キッシュはとうとう抜き放った刃を、体の重み全て預けて突いた。
素朴な床に広がるのは、黄金色の髪だけではなかった。
青ざめたサクヒナの顔をキッシュは口づけするような距離で見下ろしている。まだ息があった。
ナイフで縫い留められた女は、眩しげにキッシュを見た。
「そう、私は。その顔が見たかったのよ」
ディー、と瀕死の娘が彼の名を呼んだ。
何年も前にこの世を去った男。
彼女が殺した男。
キッシュの友。
友だった。
「貴方のその顔……ディーはいつも貴方の隣にいた……
見えるわ……あの人の……、」
欲しかったの、とサクヒナが呟いた。
「私には、あんな顔で見てくれなかった……あの強い眼差し…」
それが、欲しかったの。
サクヒナは笑っていた。
喉を焼くような声で笑いながら彼女はキッシュに手を伸ばした。睦み合う恋人めいた手つきで、細い指先がキッシュの頬に触れた。
「ディー、好きよ、大好き……大好きなの……」
それは、ここにいないかの青年への思慕だった。
キッシュは沈黙のまま、夢見るような緑の瞳を覗き込んだまま、ナイフを抜き、そしてもう一度動かした。
決着は、暖炉の薪が崩れる音に紛れて消えた。
雨の季節、村外れの産婆の家が燃えた。
炎の勢いは強く、村人たちは消火を諦め、延焼を防ぐことにかかりきりとなった。かねてよりまじないを心得るとされた異種の女の家だけに、鎮火して後の焼け跡に近づくものはなかった。
あの日村を訪ねていた旅人の来し方も銀貨の音の中に喪失され、彼の行方は誰も知らない。彼が村から立ち去ったのかすらも。
長雨の時期は終わり、廃墟にも貪欲に夏草が芽吹き始めている。
陽光を透かして鮮やかな緑陰は、炎熱にひび割れ歪んだゴーグルの上にも落ちていた。それは焼け落ちた産婆の家の、唯一の形見だった。
季節は間もなく夏を迎える。
<END>
キッシュくんお借りしました。
初出: 2015/04/09
http://www.twitlonger.com/show/n_1sllsjg