魔物の杯


「……っていうことになっちゃって。この人ったら酷いでしょう? ローゼオさんが分かってくれて嬉しい!」
 酒精に頬を薄く染めた長耳の娘は、のろけ話をそんなふうに締めくくると人狼の前で朗らかに笑った。酒の助けもあってその声はかしましかったけれど、己の酒杯を前に眠り込んだような彼女の連れ、青白い顔の若い男はそれでも身じろぎ一つしなかった。
「女心って難しいのよねェ。サクヒナちゃんとしては、もう少し気にかけてほしかったのよねェ?」
 飴色のバーカウンター越し、胸元のリボンタイを縦結びにした店主のローゼオは匙で己のゴブレットを掻きまわしながら頷きを返す。話に掉さすように言葉を加えると、彼女はそうなの、と勢いよく頷いて更に言葉を続けてゆく。
 ローゼオと娘の前にはぽってりとしたゴブレットが一つずつ。客はこの男女一組のみ、ローゼオは客にねだられての相伴だった。
 灯火にとろとろと赤く揺れる中身は、秘蔵の薬草酒に潰したいちごの甘露煮を加えた混ぜ酒である。混淆した酒が隠微な花めいて香り、毒々しい赤さがこの女とも男とも己を定めぬような獣人に良く映えていた。
 ローゼオは匙で崩れた果実を掬い上げ、口に含んだ。痺れるように甘美な酒の熱、それを押し破るように果実の甘味が通り過ぎ、最後に甘酸い風味が酒精を清めるように口に残る。上出来の調合だった。
 ふと気が付くと、サクヒナがローゼオの顔を見つめていた。あら、とローゼオは大きく肩をすくめ、莞爾と笑みを浮かべてみせた。
「ごめんなさいね? お話を聞いていなかったわけじゃないのよ」
「ううん、大丈夫。このお酒、美味しかったなって。ここのオリジナルなんでしょう? ――あ、」
 ふと娘が耳をそばだてるようにした。ローゼオが怪訝に思ったのもつかの間、その意味をすぐに悟ることになる。
 獣の低い遠吠えにも似たごく鈍い金属音、その連続は正しく十二を数える。
 夜の深みにしみとおるような、それは遠く夜更けを告げる今夜最後の鐘だった。
 いけない、とサクヒナが呟いた。彼女は隣の青年に向き直り、
「もう帰らないと。ねえ、起きて? そろそろ戻りましょ?」
 揺すっても動かぬ連れに、サクヒナはもう、と声を上げた。青年に赤茶の外套を羽織掛けると、肩の下から腕を入れて腕を担ぎあげるようにする。それは娘と青年の体格差からすると、随分と無理があるように思われたが、意外なことに娘は青年に肩を貸しながら立ち上がった。
 ローゼオは薄く含み笑うとカウンターから出た。
 こういう瞬間が、ここでの勤めにおいて最も愉悦をもたらす。端然とした笑みは、知らず犬歯を露わにしていた。獣の愉悦、人狼の貌。
 言葉選びは済ませていた。彼女は成程わかりやすい少女だった。
「サクヒナちゃん――その人を運ぶのに、手を貸しましょうか?」
 娘の緑色の目がふと冷え、先程までの笑みが失せた。
 ローゼオに向ける眼差しからは恋に酔う乙女の甘美と酩酊の和らぎが失せ、冷たい鋼の気配は敵意と呼んで差支えない。
 彼女の手は、自然に己の背後に隠されていた。戦闘術をおさめた者の、ごくさりげない身動き。
 それだけの変質を目の前にしてなお、ローゼオの笑みは消えなかった。狼の耳は鋭く伸び、怯えも威嚇も顕さない。
 天使も踏むのを恐れるような緊張は、だが、サクヒナがふうっと大きく息を吐いたことで消え失せた。
「――大丈夫よ。私一人で連れていくわ。私の大事な人だもの」
 そう、とローゼオは頷いた。
 ローゼオは店先まで二人を送り出す。灯火もなく冷えた夜の街に出たサクヒナが、数歩歩いた後にふと立ち止まった。
「そうだ、ローゼオさん」
 酒場の扉脇でローゼオは小首を傾げた。
 首だけで振り返った少女の瞳は、思いがけず安らかだった。
「さっきの混ぜ酒の名前、教えてもらってもいい? さっきはそれを聞こうと思ってたの」
 あら、とローゼオは目許を緩ませた。
「≪赤い靴≫――手にしようと願ったもののために、永遠に踊り続けるためのお酒よ。気に入ったらまたいらしてね?」
 ありがとう、と白い吐息を吐くと、娘は再び連れと共に夜を歩いていった。やがて夜風に紛れ、少女の声の恋歌が聞こえたような気もしたが、それは酒精のもたらした幻惑であったかもしれなかった。


 二人の後ろ姿が路地を折れて消えると、ローゼオは小さく吐息をこぼして店内を振り返った。
「……今回はちょっと掃除が面倒だわねェ」
 惨状だった。
 人の靴で長年磨かれた飴色の床板には、モップで擦り付けたような血痕が生乾きになっていた。鼻に届く臭いからすると、一部は完全に乾いているかもしれない。最も汚れが低いのは青年の座席で、その微細な彫刻の陰影をこそ気に入って設置したアンティークの椅子は、彫刻の細かさの分だけ血液を染みつかせており、殺人現場の遺品と言っても通りそうだった。
 完全な復旧が難しいなら、いっそ"その趣味の客"への品にするべきかしら、とも思考はよぎるが、
「赤が存外似合っていたし、それだけの対価も頂いたとはいえ――……次から、殺したての死体連れはお断りにしようかしら」
 嘆息し、ローゼオは丁寧に店の看板を裏返すと、ドアを閉めた。



<END>



初出: 2015/3/27 http://www.twitlonger.com/show/n_1slef16


ローゼオさんとサクヒナ、ローゼオさんお借りしました。
#リプ来たうちの子とよその子で今思いついた書く予定なんてひとつもない小説の一シーンを書く

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