あたしは今、秘密を抱えている。
多分きっと、誰も知らない。気付いていない。
秘密という存在はごくありふれたものだ。誰だって、家族にも、家族に近しいくらい親密に付き合っている人々にも、秘密を持っている。あたしのような生き方をしているなら、命を分け合うような相手、例えば付き合いの長い冒険仲間だとか、旅の相棒だとか、そういう類には、奥の手ぐらいは教えるだろうけれど、さらに奥の手は秘密にして持っておく。一般論として、そういうものだ。
だから、あたしが何がしかの秘密を抱くことだって、実はそんなに変わったことではない。
「戻ったよ」
今日は昼を随分と過ぎた頃に宿へ戻った。食事時を外れたこともあり、いつもの食堂には親父さんしかいなかった。冒険者の宿にだって、天使が踏んだような静寂は訪れる。
「親父さん、今日の野菜。晩ご飯、楽しみにしてるね」
カウンターに抱えてきた野菜籠を置く。板の軋み音が聞こえるような重量に、皿を拭いていた親父さんが、ほう、と小さくうなった。
「おう。こいつはまた、いいものを選んできたな」
「最近の畑仕事のおかげでだいぶ見る目が養われたみたい。仕事先でも同じこと言われたよ」
そりゃ結構だな、とうなずく親父さんに籠の中身を任せると、あたしはそのまま部屋に帰ろうとした。汗かき仕事を終えたところだし、叶うなら水浴びでもしたいところだ。
「……ああ、仕事上がりに悪いがサクヒナ、こいつを裏庭に持って行ってくれんかね。ディーに薪割りを頼んでるんだが、そろそろ一服する頃合いなんでな」
差し出されたのは小振りの籠だった。中身は生姜水を詰めた瓶とタオル。運動の後に水を一気に飲むと腹を壊しがちだが、生姜水の場合はそういうことがない。親父さんは、あたしがこなければ自分が行くつもりで準備していたのだろう。
あたしはしばらく近所の菜園での早朝作業を引き受けている。実入りは細々としたものだけれど、先日興味深い魔法書を手に入れたので、その読解と実践がてらに出来る仕事に調整したかったのだ。そういうわけなので、このところ冒険者仕事をしている仲間と顔を合わせる機会がなくなっていた。
親父さんなりに、そういうところに気を使ってくれたのだろう。
だからあたしは一つ返事でうなずいて、瓶を抱えて裏庭の方へゆくことにした。なにしろ、彼にはずっと会っていないのだ。
井戸に冷やしたリンゴがあるから、そちらも少し持って行くといい。そう付け加えられた言葉に、誘惑されたわけではないとは言わないけれど。
裏庭の方へ近づくと、気持ちのよい打撃音が聞こえてきた。
この宿で暮らしていると、音で誰が薪を割っているか分かるようになる。一つの音の間が一番空いているのがアシュトン。当初は薪割りも不得手だったのに、むきになって薪割りをしていた成果かーーどうも、彼は”普通の扱い”にこだわる節があるーー、だいぶ慣れた音になってきた。それでも、割り損ないや打ち間違いといったタイムロスも含めると、一番薪割りが苦手なのは彼で間違いがない。一方、アシュトンほどではないけれど、一つ一つの音の間がやや空いていて、重めの音でミスなく割るのはロブさん。あの人はさすがに筋肉の使い方が洗練されているし、薪の位置どりに慎重な分、割り損なうことがない。トータルでは薪割りランキング(サクヒナ調べ)で健闘している。
逆に、音の間自体は短いけれど、打ち間違いの音も結構な割合で混じるのがムルムル。あの子はどうも小さい的が苦手なようで、薪の芯に注意してみるといい、とディーが教えているのを見かけた覚えがある。
同じく音の間が短めなのがカージュさん、あるいはキッシュ。この二人を見分けるコツは、力の入れ方だ。ムルムルほどではないけれど、カージュさんも力任せなところがあるので、割れはするけれどその音が一定しない。キッシュはその点器用に見極めるのだけど、一度割り損なうとリカバーに一番時間がかかる。従って、この点に注意して聞けば二人の判別は容易だ。日常的に薪割り仕事をしているのはだいたいこの辺のメンバーと、それからもう一人。
考えを巡らせているうちに、もう一つ、打撃音が通る。他の人よりも少し高いのは、刃が割れやすい筋を的確に抜いているからだ。それがゆるく波打つように続き、間隔はほとんど一定。きっと、木を持った時にはもう、その木がどう割れたがっているのかを察しているのだろう。
あたしは、この打ち主だけが鳴らす音を、とても音楽的だと思っていた。当該人物自体には、そんなことを考えたことはないのだけれど。
風を通すために開け放した裏庭向きの扉をくぐる。
果たしてその人はそこにいた。
こちらに背を向けているので、斧を振り上げ、振りおろし、再び上げるまでの背筋から肩の動きがよく見える。緩やかな隆起と解放の動き。その動きが作るうねりじみた変動の中で、汗がその背筋を伝うのまでも見えた気がして、あたしは一人赤面した。かもしれない。していないと信じたい。
(なんで上半身裸でやってるかな……いや、分からないわけじゃないけどさ)
軽くとすら聞こえる音を立てて、今ひとつの薪が割れる。
それを取りのけ、新しいものを立てる。再び斧を振り上げ、振り下ろす。
動きに遅滞はない。こちらの観察にも接近にも気づかない、美しい集中がそこにあった。
(この位置から、魔法の矢。射線は通っている、問題ない。――でも駄目、きっと声をあげるから)
あたしの脳裏で物騒な思考がよぎる。今に限ったことでない、このところずっと内側に飼い慣らしている思考だ。
(まず声を封じるまじない、それから。ーーこっちに接近してくる時間が生まれる、距離があっても次の呪文は難しい)
頭の中の試算を続けながら、あたしは数歩を歩き出した。相手が斧をおろし、次の木を探すそのタイミングに声をかける。
「ディー、精が出るね」
額の汗を拭っていたらしい彼が、ゆっくり振り向いた。お、と思ったけれど、彼がこちらに向き直ったときには既に彼の前髪は降りていた。相変わらず、ガードが堅い。この宿でも、ディーの瞳を拝む機会に恵まれた人なんてほとんどいないんじゃないだろうか。それは奇妙な思考ではなかった筈なのに、少しだけ、ちくりとした。いけない。今のは無しだ。
こちらの内心なんて気がつくわけがない相手は、斧を置き直して、
「久しぶりじゃないか。どうした?」
「久しぶりに宿にいるのがディーなだけだよ。さっき戻ってきたら親父さんに捕まってね」
ぐい、と籠を突き出す。思いの外勢いをつけてしまって、籠の中で瓶が回るのに一瞬ひやりとしたが、構わず、
「こういうわけなんだけど、一服どう?」
「ありがたいね。お、生姜水?」
「まだ冷たいみたいよ」
ディーは無造作に瓶を抜き出すと、栓を抜いた。そのまま口を付けて一気に飲む。
喉仏がゆっくりとスライドする、その動き。その繰り返し。
それをあたしは見ている。
(無造作に喉をさらすものだよね……――押したら、どうなるかな)
ぐっと。強く。
視線が気になったのか、ディーが瓶をおろした。
「どうかした?」
口元を拭いつつ、いぶかしげに首を傾ける。汗でべたついた顔、普段だったら少し浮いている前髪が張り付いている。さすがに瞼、気持ち悪くないんだろうか。
「汗垂れてる」
使いなよ、と籠から取り出したタオルを差し出す。何度も洗って柔らかくなった木綿布は、ふんわりとした手触りだった。
この流れは、不自然ではない、筈。大丈夫、妙なことなんて何もしてない。考えていない。
「ありがと」
(タオルに注意向いたよね。ここで、指を目に。――急所狙いでも組みつくのは無理、腕力じゃすぐ押し負ける)
妙な吐息をつきながら汗を拭う彼を、あたしは静かに見守っていた。
この人は気付いてない。
あたしの密かな思考に、きっと気づいていない。
それがたまらなくおかしくて、つらくて、すごく馬鹿げていた。
リンゴをとってくる、といってあたしは井戸に向かっていた。
この宿の構造上、あたしの出てきた裏口からだと薪割り場より井戸の方が少し遠い。普段親父さんたちが詰めている辺り、台所からならば、井戸がすぐなのだけれど。
井戸には先客がいた。
「よう」
「あれ、キッシュ。何やってるの」
「リンゴの皮剥き」
ディー同様久しぶりに見る顔は、なぜか井戸端でリンゴの皮むきをしていた。
手持ちぶたさを持て余しての一種の遊びなんだろうけれど、相変わらず器用で、リンゴの皮の幅がやたら細い上に薄い。それが、どうも剥き始めからずっとつないだまま垂れている。新手のまじないだといわれても納得できるかもしれない。いやいや。
「いや、それは見ればわかるけれど。そっか、今回はディーと組んでたんだっけ?」
「うん。今日は仕事上がり。いやー、さっくり終わっていい仕事だったわ」
シャリシャリと気持ちのいい音を立てながら滑った刃が、とうとうリンゴを全周剥き終える。どうするのかと思っていたら、彼はそれをあたしに差し出した。くれるらしい。
「親父さんからこっちにいるって聞いてな。まあ食えよ」
「リンゴ剥くくらいなら大丈夫だよね……」
くれるなら断る理由はないけれど、ありがたいのだけれど、怯える理由は一つある。おそるおそるリンゴをかじり始めるあたしに、さすがにキッシュが眉を寄せた。
「それは馬鹿にしてるのか……?」
「こないだ…っていうにはちょっと前だけどさ。あのサラダ事件が忘れられないだけだよ」
あたしはしれっと返す。あたしは過日に起こったあの出来事を惨劇だと受け止めていた。あるいは、野菜という存在に対する一種の冒涜と表現してもいいかもしれない。あの可哀想な菜っぱのことを、気の毒な人参のことを、あたしはずっと忘れないだろう。
「キーフェとシキミは気に入ってたろ」
「あの二人を基準にされると繊細なサクヒナさんは困ります」
「ですます調で何言ってんだよ。黙って食っとけ」
「あ、美味しい、蜜入りだ」
「人の話聞かねえなあ……」
キッシュをからかうのは楽しい。反応が早いし、こういう気を抜いた雑談なら、言葉にも顔にも感情をよく出すので見ていて面白い。
本人にいったらさすがに頭を軽くはたかれたのだけれど、近所の子どもにも呼び捨てにされているあたり、キッシュに対する子供たちの見解とあたしの見解は一致を見ているものと思う。
リンゴのかけらを飲み込むと、あたしは視線をキッシュに戻した。
「……ところで、話ってなあに?」
わざわざリンゴの皮むきまでして時間をつぶしていたということは、あたしを待っていた、ということになる。親父さんに話を聞いたなら、薪割り場の方に直接回ってこればいいのだ。
「ん。んー……」
珍しくキッシュは言いよどんだ。
会話の風向きが変わる。あまりいい予感のする反応ではない。煙に巻いてしまおうか、そんな考えが弱みのあるあたしの頭をよぎる。だけど、あたしが言葉を紡ぐ前に、キッシュが先手を打った。
「サクヒナ。ここんとこ、お前、妙に物騒な目をしてるぜ」
何に。誰に。その、対象までは言われなかった。
だけど、キッシュの目を見れば、それを口にしなかっただけなのだと悟らざるを得なかった。
お前は何を望んでいる、と問いかける、それは鋭いまなざしだったので。
揶揄することも出来ない。反応できなかったあたしに、言葉が続く。
「何があるのか知らないけどよ、黙って何かするのだけは、やめとけ」
話聞く奴くらい側にいんだろ。
キッシュにしては珍しいような、それは忠告だった。
あたしは現実逃避するように奇妙な感慨すら抱いていた。宿に来たばかりの頃だったら、彼は間違ってもそんなことは言わなかっただろうに。この宿で誰かと関わるうちに、キッシュも変わったのだ。あたしがそうであるように。
その後、どうやって話を収めて自室に戻ったのか、あたしはよく覚えていない。気がつけば、リンゴハいつの間にか食べ終わっていた。
その日はどうやって時間を過ごしたのか、気がつけば日が暮れていた。夜に浸されつつある部屋に魔術の光を生む気にもなれず、あたしは月明かりの差し込む窓際に立った。
キッシュは鋭い。本当に鋭い。
冒険の最中、いわゆる盗賊仕事を得意とする冒険者の多くがそうであるように、多分、彼はとても恐ろしい場所を歩いてきた経験を持つ人間だ。恐ろしいものの臭いをかぎ取ること、そういったものとどう距離をとるか考えることに、彼はきっと慣れている。
普段のキッシュの明るさからは想像もつかないけれど、実際のところ、何か暗く深いものを見つめ続けているような、こっちのキッシュの方が本物なのかもしれない。あたしがそうであるように、あたし以外の誰もだって、秘密を抱えているものなのだ。そして、あたしが今そうであるように、それを掘り起こそうとしないだけなのだ。
だけど。もしかしたらキッシュは、あたしとは違って、あたしの“それ”を掘り返そうと考える人なのかもしれなかった。分からない。そこまでは分からない。
「参ったな」
あたしは今、秘密を抱えている。
秘密は少しずつこぼちてきて、いつか完全に綻びてしまうのかもしれない。
器から水があふれるように、育った植木が素焼きの鉢を割るように。
「……参ったね」
もう一度呟く。
さあどうしよう、このあてどないものを。
一人きりの窓から見上げた空には上弦の月、夜の闇を貪欲に喰い、満ちゆく月が浮かんでいた。
<END>
キッシュくん、ディーくんおかりしました。
初出: 2013/1/11
http://www.twitlonger.com/show/n_1rkmha8