虫が鳴いている。人気の絶えた郊外の木立、日が落ちた今は、ものさびしく風が吹きすぎていくだけだった。
夜が完全に覆う前の、青ざめた一時をゆく一人の男の姿があった。魚の形状の頭をした、人間の男である。腰に剣を佩いた他は軽装、旅人の装いではない。
男は、一つの予感を携えてこの丘を訪れたのだった。
果たしてその予感は報われた。
丘の上、木々を切り開いた広場で、切り株に腰かけている一つの姿があった。
「……結構、早かったね。ロブさん。もう少し迷うかなって思ってた」
「手掛かりが幾つかあった。……本気なら、慎重なお前がそんなものを残す筈がない」
黄昏どきであるのに、彼女はその頭に麦わら帽子をかぶせていた。いつもとは違って二つに編んだお下げ髪、年頃の娘が着るような街着、冒険者としての男が知る姿とは、少しだけことなる装いだった。だが、その理由を、恐らく男――ロブは知っていた。
彼女が子供でもあやすように胸に抱くもの。その正体によって、彼は全ての答えへの確証を手に入れていたからだった。
「足取りを消すつもりは、なかったんだろう? サクヒナ」
「えへへ。ロブさんには隠せないね」
少女は切り株に腰かけたまま、ころころと笑った。
踏み込むに僅かに足りない距離で、ロブは立ち止まる。サクヒナ、野兎の精霊に連なる亜人の娘は、ここがいつもの酒場であるかのような佇まいだった。警戒もなく、ただ穏やかに笑っている、そう見えた。
尋常では、なかった。
「なぜか、を聴こうか」
「そんなことで時間を使っていいの? もっと聞きたいことがあるんじゃないかな」
薄暗がりの中で、緑の瞳が柔らかく細められた。唇からのぞく白い歯が、奇妙に冷たかった。
「――最期に、どんな様子だったか、とか」
あんなもので、倒れてしまうなんて。
彼、びっくりするくらい丈夫な体の持ち主だったのにね。
床を這って、逃げようとして――
少女がくすくすと笑みすら含めて告げる状況は、ロブの記憶の中にある残滓と確かに一致していた。
「ディーはね、最期に言っていたよ。助けて、ロブさん、助けて、……って」
ロブは、知らず詰めていた息を吐いた。拳がいつの間にか握られている。それを、緩める。
丸く黒い魚眼にサクヒナの姿を映す。
彼女は笑っている。だが、笑っていない。
「……それで俺を挑発できると思っているなら、間違いだな。あいつはそんなことは言わなかったろう」
「全部分かってるみたいに言うね、ロブさん。どうしてそんなに確信を持てるの?」
いつになく粘質な眼差しだった。にやついた笑顔の底に、何とも言えない嫌みがある。
こいつにもこんな顔があったのだ。出来てしまうのだ。
既に彼女が引き起こした一つの帰結を知っていてさえ、ロブはその事実から痛みを覚えることができた。
この眼差しの理由を、ロブは既に察している。彼女が何を知っているのか、何を考えていたのか、そんなことは、おおよそ気付いていたからだ。
それは一種の呪縛だ。時ここに至っては、もう、どうしようもない束縛だ。
だが、だからこそ、解かねばならぬものでもあった。
そのために、ロブは独りでここを訪れたのだから。
「教えてやろう」
サクヒナが濁った眼差しで口の端を歪める。
それを、魚の無表情で見据えたまま告げる。
「あいつがディーで、お前がサクヒナだからだ。そして、俺が、俺だからだ」
初めて、サクヒナの表情が揺れた。緩んでいた口元が震えた、それを見たようにロブは思った。
「あまり、人を舐めるな。これまでどれだけ一緒にいたと思っている」
少女は、何か答えを返そうとしたようだった。まなじりが僅かに震える。
唇がわなないている。言葉は形になる前に溶け消えて、彼女に抵抗させなかった。
ロブは、少女の言葉を待つ。
虫の声が響く。言葉を生み出せぬままの少女と、言葉を待つ男の間でゆっくりと夜が満ちていく。
いつだったか、この丘に来たことがある。
己と、彼女と、今はもういない青年と。
確か、ここの木立から切り出して乾かした木のうち、細工に使えないものを薪にしてくれと頼まれてのことだった。
依頼なんて言う程のものでもない。仕事がない日の、鍛錬を兼ねたちょっとした小遣い稼ぎ。あるいは息抜き。成果で安酒を奢るとか奢らないとか、その程度の話だ。
彼女が危なっかしく斧を持っていた。腰の入っていない扱い方だった。彼は、それを取り上げて、手本のように一つ、大ぶりの木片を割って見せた。
快音。
綺麗な力の入りかただった。
さすがだ、と褒めることが不得手な自分も、感嘆を告げたように思う。
くふ、と息を漏らすような声がした。
一瞬とも永劫ともつかぬ沈黙が、破れた。
少女の瞳は、うっすらと濡れていたかもしれない。月明かりがあるとはいえ、夜の暗さは判別を許さない。
あのね、ロブさん。
少女が何かを抱きなおしたようだった。
「ここにいるのはサクヒナじゃないよ。サクヒナは緑の目をした化け物に、全部食べられちゃったんだ。
だから、ここにいるのは化け物。緑の目をした、化け物だよ。戻れる橋は、とっくに焼け落ちちゃってるんだ」
「焼いたと思っているのはお前だけだ」
「そうかな」
眉を寄せて彼女が口元を釣りあげた。
「そうだ」
応じるように、一歩を踏んだ。
彼女の笑みが深くなる。笑みになっていない笑みが深くなる。
「そう言うけれど、でも、どうするのロブさん? 意味のない問答をするより、ここにいる化け物を早く退治しなよ、それこそ冒険者の仕事でしょ……!」
やにわにサクヒナが立ちあがった。数歩を一気に踏み込んでくる、その右手に夜の中にもきらめくものがあった、人を害するに十分な刃渡りのナイフ。
抜剣の鞘鳴り、刃の噛み合う腹に響く金属音、踏み込みもつれあう音、荒い吐息の交錯。落ちた麦わら。
一瞬にあらゆることが起こり、そして過ぎ去った。
「そんな踏み込みでは人は殺せん。……前、稽古をつけた時にも言ったな」
「あは。そうだっけ………覚えて、ないなあ」
「……馬鹿者め」
決着。
ロブにしがみつくようにして笑う少女の口元から、一筋、こぼれるものがあった。ロブの剣は、深々と少女の腹を貫いていた。
ナイフは、二人から離れたところに落ちていた。無垢なまま。
サクヒナは初めからロブを刺す気などなかった。相手に剣を抜かせて、自分から剣に身を投じるつもりだったに違いない。
その目論見を、恐らく、自分も分かって剣を抜いた。
この帰結を避けるために来たと思っていた。
だが、この終焉を弔えるのは自分しかいない、とも心のそこで思っていた。
「……墓は、どこがいい」
「……草原が、いいなあ」
すがりついたままの少女が、喘ぐように呟いた。
そうだね、と独白するように言葉が続く。
「墓標はいらない、目印は何も作らないで」
既に力の入っていない腕が震える。
それを、逆手で支えてやる。
「そしたら、風に帰るみたいに、」
青ざめた顔が、夢見るようにロブを見上げた。
子供のように心細げな顔をした彼女は、もはやロブすら見ていない眼差しで幾つかの言葉を口にした。
それは、一人の男の名と、四音の言葉からなっていた。
丘に一人、男が佇んでいる。
その足元に一人の少女を横たわらせたまま。
「馬鹿だな」
その声を聴く者は、もういない。
「本当に、馬鹿だ」
彼女が座っていた切り株に、手向けるようにゴーグルが一つ、置かれていた。
今ではない時に割れたレンズに、登り初めた月が映っている。
月は十六夜、全ての満ちたりが引いていく、終わりゆく月である。
<END>
ディーくん、ロブさんをお借りしました。
初出: 2013/04/28
http://www.twitlonger.com/show/n_1rkheig