そこに現出したのは赤い荒野だった。
ただただ血と肉ばかりがあった。
命あるものは、もはやたった二つしかその場所に存在しない。
そのうちの一つ、今やかつて地にあった狼のいずれより大きな黒狼が、己の鼻先についた血液を舐め取った。濡れた音が控えめに響く。
それが、彼の食餌の終わりだった。
十分な余韻を残した後、傍らに控えていた紅外套の術士姿が一歩を踏んだ。歩みとともに、術士は外套を振り落とした。乱雑に大地に落とされた外套の紅は、よく見ればおびただしい量の血液を吸っていたがゆえの色彩だった。もはや外套の元の色は判然とせず、ただ赤黒く気味の悪い色味であった。
そんな赤の中から露わになったのは、思いがけず柔和な顔だった。
まだ、青年といってよい。よく日に焼けた肌色は、砂漠の民の持つものだった。
外套を脱ぎ捨てた青年は、恐れ気もなく黒狼に声を放った。
「主」
それは決して大きな声ではなかったが、魔術の動く気配を僅かにはらんでいた。その魔術の効能を例えて言うならば、一筋の絹糸を伝う振動で、絹糸で結びつけられた相手へ、やんわりと波紋を伝えるような働きだった。
しかして、黒狼はゆったりとした仕草で振り返った。
狼の眼差しが術士を捕らえる。巨狼の瞳はかぐろくぬめる石でできており、その内側には青白い燐光が灯っていた。だが、その光ひとつでさえ、術士の頭一つ分よりも大きいのだった。
狼が低く唸った。ただ人には恐るべき獣のうなりにしか聞こえぬそれを、しかし術士は明瞭な人の言葉として聞き取ることができた。
「……これで、この一帯も焼き滅ぼした。さっき食ったのが最後の人間ということになる、バドル」
かつては流暢に人の言葉を扱ったこの狼は、人を食らううちにいつしか言葉を操る声を失っていった。もはや彼の声は獣の唸りとしか成らず、その響きの中に意志を見いだすことができるのは、絆を結んだこの術士、バドルを除いて他にいなくなっていた。
狼が僅かに身を動かし、やや腹ばうようになった。
「ああ、バドル、お前は次に何を望むのだ」
喉の奥にこもった唸りは、奇妙に湿度を帯びていた。
巨狼はさらに身を落とし、その鼻先を術士へと沿わせる。ほんの一突きで人一人潰しかねない巨躯が、驚くべき繊細さを持って術士に触れた。甘えるようなその仕草を、バドルは腕で鼻先を抱え込むようにして受け入れる。主たる獣が彼に触れることを望むのであれば、バドルが拒む理由はなかった。
鋼糸の体毛が耳もとに傷を走らせたが、バドルはそれに拘泥せず、ただ目を伏せそらして失明の危険だけを防いだ。慎重に顔を寄せれば、ひやりとした感覚が頬を走る。
彼が触れるとき、この狼の体は常に冷たかった。かの狼は、鋼と石からなるいきものであり、その体に熱が宿るのは、殺戮に興じるその時ばかりであったのだ。
「主よ、わが星の君よ」
高揚を押さえてバドルは告げる。触れた獣の一部が、バドルの熱を吸って僅かに暖まるのに恍惚を覚えながら、
「貴方は私が詠んだ通りに都市を焼いた。町を滅ぼし村をこぼち、人を食い、この大地に貴方は確かに終焉をもたらした。御身は真実、終末の帚星の君でありました」
星詠みは言葉を続ける。狼の鼻先を抱く腕は、やわやわと獣の輪郭を明らかにするように動いた。指先を鋼の体が傷つけることすら、彼には歓喜を与える。
「――だから、貴方はすべてを討ち滅ぼさねばならない。生きるもの全てを」
ふ、と狼が僅かに吐息した。血液の金臭さに独特の電離臭がまじりあった臭気が、彼の身の内からこぼれた。
「俺は既にこの地の全てを討ったと言った。その言葉に偽りがあると?」
「滅びの星よ、尾引き星たる主よ。この大地にまだ残る人間を、お忘れではありますまいか」
「どういうことだ」
バドルは巨狼を抱く腕をほどいた。
一歩を退けば、眼前には巨大な顎がある。問いかけに、薄く開いた口からは、ナイフのような牙が覗いた。それは砂の国に産するアラバスタ―よりなお白く、先程まで彼が食らっていた血肉の名残などかけらもなかった。
その事実にバドルは高揚を得る。彼の主は無垢にして堅固である。彼に何らかの疵を残しうるものが、この地上にあるものだろうか。
「私に、貴方が食らう最後の一人となる栄誉を。これにより、真実あなたは滅びの星となりましょう」
「それがおまえの望みか」
青白い光、異形の星狼のまなざしが鋭く閃く。
「いかにも」
星詠みの男の紫瞳は、その光に細められた。表情として現れたのは、恍惚だった。
「ならば叶えよう」
うなり声は低くこごった。
折しも刻限は、月のない夜を迎えていた。
闇の大地は、静寂に満ちていた。
獣の青白い瞳がただ、地上の星として輝いていた。
「これでお前の望みは叶ったか、バドル」
獣の傍らには、もう誰もいなかった。ただ、彼がまとっていた赤黒い外套が、忘れられたように落ちていた。
獣は、彼の血を全て嘗めとった後の鼻先を、それに寄せた。熱などあるわけがなかった。
「バドル。俺は確かにこの世の終わりであれたろうか。お前の望みを果たせたろうか?」
いらえはなかった。あるはずなどなかった。
獣は、のろのろと鼻先を持ち上げた。鼻先を空にかざす。幽光めいた青白い光が瞬き、辺りを見回した。
輪を描くように歩き回る。鼻先を地面につけ、たどる。
やがて獣は、腰を沈め、後ろ足を地面につけた。
もはや誰にも意志を読みとらせぬ、獣の声が、喉を鳴らした。
「――……そうか。おまえは、もう、いないのだな」
前足に力を入れる。
頭をそらし、夜空を仰ぐ。
喉がわななき、それに応じるように薄く口を開いた。
ああ、バドル。バドル、聞いているか。俺の預言者。
お前の言葉は返らずとも、俺の言葉を聞いているか。聞こえるか。
「俺の望みは――」
黒狼は咆哮した。
”あ”という音から、”お”の音へ変ずる、太い吠声は長く延びた。それは狼が上げる他者をよばう声だった。
それは、生まれて初めて人の子が上げる声に似て。
そして、それは生きることに軋む者の苦鳴に似た。
狼が長く朗じた他者を乞う声が、空の元を走り抜けてゆく。無数に分割された残響は幾重にも重なり合い、彼の意志を明らかにした。
黒狼の声は尽きない。
だがその身の内からは、青白い光が漏れ出ていた。咆哮の衝撃によって体に走った亀裂は深く、彼の宿すものの燐光をこぼれさせているのだった。明滅するその光はひときわ強く輝き、狼の体に決定的な亀裂を刻んでゆく。
狼の声の残響は、今や光とともに世界を走っていた。狼の姿は今や光に飲まれて青白く、その岩石めいた体は砕け、引き裂かれ、だが、なお狼はその声を鳴き続けている。彼の長嘯が、ひときわ高い”あ”の音に上った後、狼の腹は今こそ完全に裂け割れた。
臓器を模したガラスめいた構造体が、砕けながらまろび出る。
骨格であったのだろうか、枝分かれした金属の輝きが折れ曲がり、ちぎれる。
狼を現世の獣たらしめていたものが、狼のさらなる内からこぼれる光を表面に流し、自らも光であるように輝きながら砕け流れてゆく。
そして、とうとうその巨大な魔力炉、異質な起源を持つこの黒狼が生命としてある由縁のものが姿を露わにした。
それはさながら大釜に閉じこめられた星の海だった。暗黒の中にたゆたう無限の星々を、この黒狼ははらんでいたのである。だが、その星海も、狼とともに終焉を迎えようとしていた。
暗黒がゆがみ、星の光が遷移し、星の海の軸たる極星が、不穏に急成長を遂げた。あらゆる星々を飲み込んだその星は、ある一瞬でその質量を凝縮させ、
閃光が現世を奔った。
その光は、終末であり、創世であった。
狼の食らった命は、この世と引き替えにして新たな宇宙を得たのである。
――その世界は、ただ辺境が緩やかに隆起した大地と、太陽たる一つの恒星、月たる一つの大きな衛星、そして天上に固定された星の群によって構成されていた。月は世界の高みに座し、太陽がその周りをさまよった。太陽が旅することにより世界は昼夜を得た。月は太陽によって輝き、月は大地のあらゆる場所から望むことができた。
世界が生まれたとき、地上には何にもなかった。
しかし、無限に等しい時間が流れるうちに、大地は試行錯誤の中から己を満たすものどもを生み出した。海に大地に植物が満ち、海の中から立ち上がるものが歩みだし、そしてその全てが己と己に連なる者を精錬させていった。
世界には植物が、魚が、獣が、鳥が、そして人が生まれ出、彼らは世界をよく満たした。
その世界では、狼の吠声からこの世が生み出されたと信仰されている。生命を求め慕う声から生み出されたこの世界は、それ故に、誰かを呼ぶ声は、誰かを求める手は、必ず応じる誰かを得ることができるのだと。
星を従え月がしろしめす空の下、緑あやなす大地の上を無数の生命がさざめき流れ、今もその歌はやむことがない。
<END>
鍋宿二次創作 嶺落ち星・悪落ち星ルート
バドルさんお借りしました。
初出: 2013/04/12
http://www.twitlonger.com/show/n_1rjnnsn