荒野の夜


 荒野の夜、一人の旅人とゆきあった。
 傍らに狼を侍らせた若者は、穏やかな物腰で私を歓迎し、私が彼の焚き火に当たることを許してくれた。狼は若者に身を寄せ、たまにぬらりとした瞳でこちらを伺うほかは、大人しやかなものだった。私ははじめ狼を警戒していたが、若者と会話をつづけて行くうちに、彼の快活さにほだされて、獣のことなど殆ど頭に昇らなくなっていった。もっぱら私たちは旅先の土地の噂について語り合ったが、話の種はやがて尽きる。そうして始まった沈黙は、狼がはたりと尾を撃ち振った音までよく聞こえた。獣の背を恋人のように優しく撫でてやりながら、若者がふと私の抱える楽器に目をとめる。ぶどう酒色の瞳がふと細められて、
「あんたは旅の詩人と言っていたっけ。どうだろう、この荒野の夜を慰める、歌を一つ」
「望むなら、まずは一つ」
 私は抱えた楽器の調律を済ませ、喉の調子を整えると、まずは試すように一つ二つ、弦をつま弾いた。こんな寂しい野の夜だ、明るい歌が良いだろうか。
 その夜の私には、詩神の寵愛が降りていた。霊妙恵むかの女神の計らいで、私の指はこれまでになく楽しく楽曲を歌い、紡いだ。若者が思わず拍子をとり、狼すらこちらを穏やかに見つめていた。一つ、もうあと一つ、と若者が音楽をせがむので、私は乞われるままに何曲も新しい歌を掻き鳴らした。焚き火の対価のようなものとはいえ、我ながら少々やり過ぎのような一夜だったと思われる。

 翌朝、我々は早くに分かれ、それぞれに旅の道を急ぐこととなった。
 荒野を抜けた街で、私はいくつか宿を回った後、ある旅籠にしばらく厄介になることになろうとした。旅籠に吟遊詩人は歓迎される。詩人のいる宿は、もっぱらまともな宿であると、そう判断する指標になるからだ。旅籠の主人は私に宿で歌う許可をくれたが、彼の表情は重かった。詳しく話を聞いてみると、
「最近、荒野を抜ける旅人が減っているものだから。宿としては商売あがったりさ」
 彼は、更にこんな話を教えてくれた。
 それは、荒野をさまよう狼と妖魔の噂だった。人食いの狼と、狼に従う妖魔が、ひと時の住まいを荒野に定めたのだという。
「夜のように黒い狼と、月光のような髪をした魔物だというよ。お前さんは荒野越えで出会わなかったようでなによりだ」

 それから数週間を過ごした後である。
 私は夜の街を歩いていた。呼び出しで仕事をした後である。客のおごりで結構な量の酒精が入っており、夜風に当たり歩くのは気分の良いものだった。
 当てもなく歩いていたので、気がつくと私はやや町はずれにまで辿りついていた。酒の入った喉で歌うのはとがめられるべき行為だったが、思う儘に鼻歌を紡ぐ快楽に
頭が負けた。
 ふわふわと歩くうちに、私は誰かとぶつかってしまったようだった。衝撃にふらつきながら、謝罪らしきものを口にした、と思う。
 返ってきたのは、くつくつと笑う声で。その若い男の声は続き、
「あの時は命拾いしたね。君の歌を、彼が気に入ったものだから」
 ――今夜はさて、どうしようか。
 おりしも満月の夜であった。若者の背に、青白く輝く一対のともし火と、月光にも黒い夜の如きものが眼に映った。
 一気に酔いがさめた。私はそのまま走りだし、どうやって旅籠への帰途を辿ったものかも覚えていない。
 ガタガタと震えながら一夜を過ごした私は、翌日旅籠を逃げるように旅だって、その街を後にした。

 その町が滅んだと聞いたのはつい先日のことで、私はあの夜のことを思い出し、今も一人打ち震える。



<END>


バドルさんお借りしました。
初出: 2012/03/07 http://www.twitlonger.com/show/ga5rle




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