遊楽

 八月、その月も半ば。
 人と人ならざる者の社にも、夏の熱が埋もれ火めいて宿る、そんな夜のことである。
「優花よ、出かけるぞ」
「はあ」
 唐突な与一の言葉に、繕いものの狩衣から顔を上げた清水は手の感覚だけで玉止めの始末をつけた。
 与一の座す社の本殿の深奥、現世と皮一枚で繋がった淡い異界。怪異の手になる壺中天めいたその森は、寝殿造に倣いながらも質実な雰囲気のある一つの屋敷を抱え込んでいる。それこそが、稲荷神の名代としてこの社に座す狐神、与一の巣であり、彼の食客として過ごす清水の仮寝の宿だった。
 主が人の外にあるものであるなら、屋敷もまた怪異の類である。
 ここでは、手入れする者の姿も見えないのに、白砂の南庭は常に清かに保たれ、そここに備えられた燈籠・燭台には、日が暮れれば火が入り夜が明ければいつの間にか消されている。そして、この屋敷の不思議はそれだけに留まらない。
 清水がこの屋敷に連れてこられた時、「お前はこれを持って歩くがいい」と与一から菊花と酒杯の描かれた遊戯札を渡されたのだが、清水は一度だけそれを部屋に残したまま屋敷を歩いたことがある。そうして歩いて、清水はここが怪異の領域なのだと深く納得したのだった。
外から伺えば檜皮葺の築地塀は常識的な広さに見えたのに、中に入れば透渡殿がいくつも現れ、通り過ぎたそれらが、振り返ってみれば増減している。道を折り返せば見覚えのない几帳、衝立と立ち並んでいるのは当たり前で、屏風などは目の前で絵を変化させすらしてみせた。人ならぬ者のさざめく気配がそこここに漂っており、それらの多くは好奇と興味を隠さず清水を注視しているのだと感じられた。もはや見知らぬ様態となった屋敷を彷徨ったのは、当時の時間感覚によれば半日ほど。ようやく見覚えのある妻戸を開いて部屋に戻れたと思えば、聞き覚えのある狐の含み笑いがどこかから聞こえたので、どうやら最後は与一の何らかの導きがあったものと知れた。
 以来、彼女は与えられた札を手放さずに屋敷を歩いている。彼女がそうしている限り、どうやら屋敷は清水の認識から離れず、人をからかう怪異も訪れず、平穏に過ごすことができるようだったので。だからというわけではないが、この屋敷で過ごす間、与一に呼び出されぬ限り、清水は与えられた居室で過ごすことが多かった。
 さて。
 清水の部屋にぶらりとたちよった狐神が、来るなりのたまったのが先の一言である。
 刻限は夜、決して浅くはない。清水が怪訝な顔になるのも無理はなかった。
 だが、この屋敷の主であり、諸々の便宜を図ってもらっている相手となれば、多少の無理も曲げねばならぬ。だから清水ははんなりと与一を見上げ、
「して、どこへ」
 柑子色の狐神は、勝手に人の部屋の引き戸を開け放つと、夜の中でなお清かな白砂の庭を背にして振り返った。
つくりとしては実直な顔立ちをしているのに、こんな時だけ妙に生き生きとしてみせる。いかにも悪狐の顔でにんまりと笑うのが、与一の"この手の悪行"の数々を知っている清水としては頂けない。
 今回もその例に漏れぬ狐が笑み声で言うには、
「――"夜遊び"、だ」
 清水は一つ吐息して、針仕事を片付け始めた。そもそもが急ぎの仕事ではないし、手が空くのが落ち着かなくてやっていたのが半分だから、与一に従わぬ理由にはできなかった。
 人ならざる者の都合は、人間のことなど構ってくれない。



遊楽



 清水は与一の背を追うように山中を歩いていた。二人の行く手には青白い狐火が先達として侍り、熱の気配の薄い光として彼らの足場を照らしている。とろとろと尾を引くようにして宙をゆらめく炎は、奇妙に生き物めいた動きをする。
 与一の口ぶりではごく近所に出かけるような様子だったが、清水らが今歩くのは、とっぷりと闇に包まれた山の、ごく深い場所だった。与一の歩き方には気遣いを感じないでもないが、清水としてはここまでの路程で足に若干の疲れを感じている。
 どこまで行くのだろうと与一を伺う視線に 気づいたのか、彼は視線だけを清水に寄越した。
「後は僅かだ、さして時間はかからん」
 声はごく明るく、どうやら機嫌は良いらしい、と清水は見当づける。
 夏の夜の森は、むせかえるような土の気配で満ちている。足元から湧き上がる湿った土の精気は密度が濃く、草むらを鳴らす大小問わずの生き物の気配にはこの世ならぬものもまじっているようだった。
 獣道もあるかないかの山中、先触れとして狐火が照らす道は、どうやら現世のものではない。クマザサをはじめとする下生えは、あるいは自ら地に伏し、あるいは自ら退き、彼らの前に道を開いた。盛んに身の丈を伸ばした灌木の類などは蛇のように身をよじらせ、足元を不安定にする石や倒木はするすると身を腐葉土の中へ沈める。与一に従って進む清水が踏む地面は、そんなわけで決して浅からぬ山を行くというのに、足に優しかった。そのうえ、虫が寄り付く気配もない。それもまた、どうやらこの狐の怪異の加護であった。
 歩みを続ける間に、清水はふと耳に違和感を覚えた。歩みの速度は維持したまま、周囲の物音に注意を傾ける。そうして聞き取った、涼やかに連続した響きは、
「……川?」
「この先にちょっとした渓流がある。そこが目的地だ」
 音は次第に大きくなる。
 やがて目の前が一気に広がった。
 ふわりと鼻先をかすめてゆく、水の気配を多分に孕んだ大気。
「――!」
「どうだ、なかなか悪くはないだろう」
 清水は眼前の風景に目を見張る。与一が得意顔を向けるのも見えなかった。
 渓流は宴支度に装っていた。
 川床、と呼ばれるものがそこにはあった。
 渓流の川幅は広く、両手を広げた大人が三人は並べる程である。そこへ、渓流へ直に支柱を下ろす形で、桟敷<さじき>が作り付けられている。桟敷の際へ腰かければ、つま先を水面で濡らせるほどの高さになっていて、いかにも涼しげなしつらえである。
 一方川床の上はといえば、竹を編んだ屏風が控えめにめぐらされ、席には朱色の野点傘が差し掛けられている。夜の中にぼんやりと浮いた傘の下には卓が備え付けられており、食事の支度があるようだった。どこから渡るのだろうと視線を彷徨わせると、察した与一が指で示してくれた。影に沈むような渓流の中、やや見えづらいが、どうやら岸から渡るための足場が組まれている。
 夜だというのにそんなふうに視線が広く通るのは、渓流際の梢に提燈が無数に灯り、夜闇を切り取っているからだ。提灯にはいずれも狐火が入っていて、渓流には薄青い光が不便にならぬ程度に落ちていた。本来なら、この渓流はとっぷりと闇に沈んでいるのだろう。とはいえ、頭上に巡らされた提灯は夜闇を完全に払うわけではなく、月の光めいたソフトさで一帯を照らすに留まっている。手元に不便はないが、人の表情の機微を見分けるには難い、といったところだった。
 行こう、と与一が声をかけたので、清水は周囲を見渡すのをやめて彼の導きに従った。
 与一の手を借りながら川辺に近づき、水上を渡る。飛び石のようにせせらぎから頭を突き出した岩は、いずれもしぶきにしっとりと苔を茂らせて青い。渡る道をわざわざ組んでいるのは、岩場が足場として使えないためでもあるのだろう。足場の木材には使い込まれた古びがあり、今回のためだけに切り出されたもの、というわけではないらしかった。
 そうして川床に足を踏み入れてみると、予想していたよりも足元が安定していて清水は面白く思う。夜の川からはひんやりと冷気が立ち上るようで、歩き通してきた体に心地よかった。
 与一はどっかりと卓の首座を占めると、清水を手招きして座らせた。
「というわけで、優花よ」
「なんでしょう与一さん」
「寿司だ」
 与一が畳んだ扇で卓上を示した。
 卓の中央を景気よく占めるのは、朱塗りの寿司桶だった。
 数は二つ。七寸ほどの大きさの、小ぶりの桶が並んでいる。寿司桶には見覚えがあった。与一贔屓の角の寿司屋のものだ。それに加えて、互いの前には小皿と塗り箸が用意されている。
 ふむ、と清水は寿司桶の中身を確かめる。
 一つには稲荷寿司が満ちており、それはどうということもない。だが、もう一つは事情が違った。とりどりの握り寿司が座している。
 珍しいラインナップである。
 眺め降ろした視線を数度往復させ、清水は再び与一に視線を戻した。
「はあ」
「高級寿司だ」
 生返事が気に入らなかったのか、視線を動かさぬまま強調の言葉が来た。
 清水は再度寿司桶を見下す。この夜の非現実さの中で、寿司桶に乾燥防止のラップがかかっているのが妙におかしかった。
 与一の指摘に倣って見直してみれば、そこに並ぶネタは、
「カンパチ、トロ、アワビ……ですか? 随分張り込みましたね」
 脳裏に注文表を思い描き、照合する。記憶が定かならばこの組み合わせが存在するのは、最上クラスの桶に限られる。そんな大桶に、ランクとしては若干落ちる稲荷寿司の小桶が添えられているのがこの狐神らしいが、それにしても、
「大丈夫ですかお財布。まさかこんなところまで来て化かしてませんよね」
「さてはお前、俺のことを信頼しておらんな」
 胡坐をかいて座る与一が眉をひそめた。
 さて裏付けのないことを言ってしまっただろうか、と清水は反省し、これまでの与一の実績を確認することにした。
 早回しで脳裏を巡るのは、与一の"遊び"のとばっちりや"人間にしか頼めないちょっとした仕事"で遭遇した出来事であり、それらの蓄積、顛末であり、事態の収拾とそのための無数の骨折りであり、それら全てを克明に思い出したがゆえに清水は心から微笑んで、
「――与一さんを信用しているからこそですよ」
 狐がそっぽを向いた。つんと鼻先を上げてみせるあたりが芝居がかっていて、本気の反応ではないと知れる。
 この狐神とはもはや決して短くない付き合いになってきているが、その蓄積から推しはかるに、与一はこうやって構われるのを好んでいるようだった。年経の怪異のくせをして、こういうところで子供じみている。それが面白いと清水には映った。仮に、その全てが彼の本心ではないのだとしても。
 清水の視線の先で、投げやりに与一が手を振る。
「良いから食べるがいい、これがお前の望みだったろう」
 ほれ、と箸が示される。
 与一の方を伺うと、彼は酒器を取っている。まずはそちらから始めるつもりらしい。
 手を伸ばそうとした清水を与一は視線だけで押しとどめ、彼は手酌で酒を飲み始めた。
 ならば清水がそれ以上手を出すわけにはいかず、
「それでは遠慮なく」
 用意された塗り箸と小皿を取って、寿司を頂くことにする。漆黒に朱を差した仕立ては、
 それにしてもまたなんで、と呟いた清水に、与一が半目になった。
「……お前、自分の書いた短冊の内容を覚えてないのか」
「覚えてますよ、だからびっくりしてるんです。七夕を過ぎてからだいぶ経ちましたもん、八月に入って何日がたったと思うんです」
 清水としても、うたかたの記憶として、僅かに棘を帯びつつも日常の中に沈めていたのだが、この狐神としては別の言い分があるらしかった。
 与一は視線を交わすように膝を立てて体を揺らすと、
「あれは暦の上では新暦の七夕だったからな、叶えるならば旧暦の今日が良いだろう、そう思ったわけだ。国立天文台でもそう告知しているぞ」
「……新暦の七夕にササ飾りを持ち出してきたのがそもそも与一さんであるという話は措くとして、貴方の口から国立天文台なんて言葉が出る方がびっくりなんですが、そのところどうお考えですか」
「さして妙なことではないぞ。神と言えど、古のまま凝り固まっているわけではない。ネットも見るし地動説も信じておるさ」
 ネット……と胡乱な顔で鸚鵡返しに呟く清水に、与一は肩をすくめた。そのままの動きで彼は杯に手を伸ばす。
 それを見咎めて、清水は徳利を取り上げた。掲げてみせれば、今度は与一も杯を差し出した。
 杯に満ちる酒は、僅かに狐火の青を流すようで、いかにも清らかな様子だった。
 与一は杯を傾けると美味そうに目を細めた。彼自身の言葉とは裏腹に、その仕草は止まった時の中に佇む存在のように清水の目には映った。
「そんな柔軟な存在だとは思いませんで。だって、屋敷の趣味は完全に平安時代じゃないですか。古ですよ古」
「時が経つと、わざわざ当世風に建て替えるのも面倒になってきてなあー……――」
「何世紀分の面倒くささなんですか……」
「家とは帰る場所であって、立ち歩く姿ではないからな」
「今も、だいぶ時代がかかっているように見えますねえ」
「それでも、だ。俺のような」
 狐神がゆっくりとした動作で座り直した。
 その顔には僅かに笑みが乗り、
「俺のような神とて流転するのだよ、優花。新たなものを知り、古いものを捨て、変わってゆくのだ。暦も、世界の理も、皆、俺の身を通り過ぎ、再び訪れた。神として望まれる姿すらも、移り変わってゆく。かつての俺が今の俺でないように、明日の俺もまた今日の俺とは違う俺になるだろう、そして明後日の俺もまた同じように変わってゆく」
 だから何もおかしくはない。
 澄んだ音を立てて、与一は杯を卓に置いた。反射的に視線をやった杯の裡<うち>、浮かんだ波紋の形に狐火が流れていた。
 狐神は無造作に握りずしをつまみあげる。赤身の魚肉が飯ごと噛みとられて口の中に消えた。
 伺う清水を気にした様子もなく、咀嚼。
 うまい、という独白が、川音に紛れて聞こえた。
 言葉が途絶えると、水音が一際涼やかに耳に残る。
 川のさざめきは人の語り騒ぐ様に似ている。だから、それを破ってさらなる言葉を口にするためには、清水には少しの時間が必要だった。言葉を伴わず、だがそれゆえに人の声を思わせる川音は、清水の古い記憶へと流れてゆく。
 言葉を紡ぐということの意味を、背負った夜がある。
 あれは夏のことだった。熱が残る夏の夜。
 その夜は、さらに続く。
 冬の始まり。全ての熱が失せた夜。
 本当の意味で一人になった、そう己を定義しなおしたあの森の小屋、そこに清水は全てを置いてきた。
 その筈だったのに。
 清水の背を押したのは、それでもちらりと掠めた、ある一人の面影だった。
「――……そんなコロコロ変われるようなものなんですか神さまってのは」
 気が付いた時には、与一が清水の顔を見ていた。
 見透かされたろうか。
 己の言葉に恨みがましさがにじんだ気がして、顔を合わせるのに抵抗があった。清水の視線はふらふらと足元まで流れ落ちる。正座の際に折ったのだから、取り立てて乱れているわけでもないのに、居心地が悪くて何となくプリーツスカートの裾を整えた。
 だからというわけでもないだろうが、狐神の気配がふっと緩む。
 彼は杯を再び取ると、
「俺達とて、たった一人で在るわけではないということさ。
 ――わからん、もしかしたら不変なるもの、変わらずの神もこの三千世界には存在するのかもしれんが、少なくとも俺は、俺たちはそうでない」
「どういうことでしょう」
 与一は杯を薄く口につけ、唇を湿らせる。
「例えば――猛々しく荒ぶるものを慰め楽しませ笑わせる。社を立て、こちらへと招き請い座らせる。昔から人間がやってきたことだ」
「………」
「美しいカミよ、優しく人を守るカミよ。そうやって畏<かしこ>み畏み祭り上げられ、喜ばせられて、そして真実美しく優しく人を守るカミになる、なってゆくのだ、野山で荒ぶカミであってさえ」
 清水は目を伏せた。
「もし、恐ろしく冷厳なものであれと、人を裁き恐れさせるものであれと求められたなら」     
 さあてなあ、と与一は手の中の盃を手遊びに回した。
 どうやらいつの間にか干していたようだった。気怠げに狐神は言葉を続ける。
「そうして祀られたことがないからな、俺には分からん。この邦<くに>の何処かには、そんなモノもいるのかもしれんが」
「与一さんは」
 狐神が薄目で清水を見る。
 膝がしらをいつの間にか掴んでいた。スカートに皺が残る、と考えることもない。
 清水は、恐らくこの時初めて、遠坂与一と名乗る狐神に心の一端を明かした。
「そんな在り方を嫌だと思ったことはないんですか。他人に定められて、望まれて、かくあれと用意された道を歩いていくことを。……降りられない道を行くことを」
 与一の眼差しから、ふっと焦点が失われた。
「そうさなあ……、」
 狐神が酒杯を差し出したので、清水は徳利をとってやって、新たに酒を注いでやる。与一一人の酒とはいえ、何度も酒を注いだ徳利が枯れる様子はない。
 眼差しで謝意を示し、与一は酒を一口、くいと含んだ。
 花の匂いでも嗅ぐように酒を味わうその表情が、ふと穏やかに綻ぶ。
「――……長い時間を過ごしているとな」
「はい」
「時の中で、あらゆるものが砕けて失われてゆく。憎しみも恨みも、ままならぬと感じていた筈の怒りも、抗いがたい悲しみでさえ。己の感情ですらそのような有様なのだから、周りにある生き物の命など言わずもがなだ、山野とて姿を変え、俺の傍らを流れてゆく。
 だが、それでもその中で、金剛石のかけらのように僅かに手の中に残るものがあるのだ」
 彼の杯はまだ乾いてはいない。
 とろとろと揺れる酒を掲げるようにして眺めながら、与一は言葉を続けた。その横顔は、清水をして見知らぬ人間を相手にしているような心地にさせた。人間の計算でゆけば、決して短い付き合いの相手ではないというのに。
「それは、決して明るくはない、ましてや夜道を照らすほどでもない、そういう光だ。だが、そのごく僅かな残照でもって、俺は自らをこの世に影差す。……するとな。選べぬものだと、そう思っていたその景色の内側に、異なる色が見えてもくるのさ」
「何が変わるというんです、それで」
「己の立ち方がな。変わる」
 狐の目が細く釣られた。
 薄く快の気配を含んだ眼差しが清水を見ている。
「それは、ただ影の差す向きが変わる、その程度のことなのかもしれんがな」
 小さな子供のように頭を撫でられる、そんな錯覚があった。目を合わせておれずに清水は視線を卓に降ろす。
 そんなものなんですか。
 薄闇の中で呟いた言葉は、それでも感情が薄く乗る。みっともない、それをそんな風に評価しながら清水はなお口を開いた。
「そんなものなんですか、時を渡るということは」
「さあてなあ」
 人ならぬ者のいらえは飄々と流れてゆく。与一は再び酒を含むと、喉仏を大きく動かして飲み下した。
 沈黙の力が強まれば、流水の音が一際強くなる。
 清水は与一の様子をじっと伺った。与一も清水の視線を理解している、そう感じるのに、狐神は焦らすともなくゆったりと酒を味わって、
「俺とお前は違う。特に、そう……お前は子供だよ、優花」
 なれば、
「好きなように遊ぶがいい。まだ日が暮れたわけではない、子どもの時間だ」
 そう告げおいて、与一は杯を更に煽った。
 彼はそのまま寿司桶を見下ろし、眼差しだけで寿司を愛でる。
 その姿に、清水は無性な口惜しさを得る。
「与一さん。もう一つ、聞いていいですか」
「なんだ」
「どうして私を側に置いておくんですか」
「それを問うか」
 狐神は面白げに笑い、だが、その笑みを消した。
「……お前が問うものだからだ。答えを求め尋ね、問いかけを思考する。
 それは、答えのないものに、形を持たぬものに、手を伸ばすということだ。噤み答えを与えぬものに、虚無に抗い続けるということだからだ」
「買い被りすぎでは」
 与一がゆっくりと頭を振った。
 狐の金色<こんじき>の眼差しが清水を見る。
 それは冷たい鉱物のような光だった。
 忘れていた。
 普段があまりにひとよりひとに似すぎているせいで。
 目の前にいるものは、ひとではないのだ。
「答えを求めるということは、答えを見出そうと望むということだ。混沌に彼我をもたらすものこそ、問いかけだ――…… 問いもまた、俺達をこの場所にあらしめる力なのだよ」
 わかるか、と問う人外の眼差し。
 人間が応じるには、言葉しかなかった。
 だが、
 何を言っているのか、
「――分かりません」
「ならば考えるがいい、尋ね求めるがいい。詰まったなら遊ぶがいい。お前にはその時間がある。何、自分のことなど己が一番分からぬものさ」
 強張った清水の声に、与一が目を柔らかく解した。横に延べる、それは笑みの形だった。
 ふと、与一が面白そうに扇の先で宙を示す。
「そらみろ、」
 その先に、黄色<おうしょく>の光をやんわりと滲ませるものがある。
 それは、清水の視線の先でふわふわと浮かび上がり、一つ二つと明滅した。
「――光が邪魔か」
 与一が扇を振れば、頭上の提灯の光が心得たように幾分落ちた。清流を満たす闇が深くなり、飛ぶ光は一層澄んだものとして目に映る。
 その光は川縁から舞い上がるようだった。
 それは熱も持たぬくせに、夜に薄く馴染むような、淡く緑がかった光を放っている。
 一条、二条、闇に誘われるようにその光筋は増えてゆき、せせらぎのまにまに、明滅する光点がとろとろと集合するならば、
 乱舞。
「夏と言えば蛍」
「まさか、このためにここまで」
 呆れ顔を向ければ、狐が尊大に胸を張った。その背越しになお蛍は舞い、夜の精気のようにもつれあっては立ち上る。
 蛍の数は増していくようだった。彼らにとってはこれからが夜なのだろう。
「遊びならば、徹底的にやらねばな」
「はあ」
 納得のいかぬ顔で応じる清水に顎に扇を当てて、狐がいかにも愉快気に笑った。こつこつ、と扇で数度肩を叩くようにして、
「なかぬ蛍が身を焦がす………お前は出来が良すぎるのだ。たまには子供らしく泣いても騒いで、疲れるまで遊べ」 
 そうしてみれば、与一は全く大人の男のようだった。顎を引いて背筋を正してみれば武人然として、動く姿に揺るぎがない。
 その余裕が小憎らしい。だから清水は、ふと思い当たった言葉を口に乗せる。
「与一さん」
「なんだ」
「"鳴かぬ蛍が身を焦がす"、その前段知ってます?」
 おや、と与一が目を見張った。
「そんなものがあるのか」
「つまり、知らないんですね?」
「……まあな」
 深追いすると、与一は渋々と認めた。
 清水は久しぶりに深々と笑んだ。清水の変貌が飲み込めぬ様子で、与一が眉をひそめたのにも構わない。
「分かりました。なら、セクハラとしてカゲさんの相談窓口に持ってくのはやめときます」
「は?」
「これ、恋愛ネタの都都逸なんですよにー」
「何のことだ」
「ちょっと大人向けのアレですよ」
「そうではなくてだな、」
 腰を上げた与一の言いたいことはふんわりと理解できるが、清水は先回りして言葉を塞ぐ。ここで逃がすつもりはない。
「何かあったらいつでも相談においでって言って……いや、書いてくれまして。あのひと携帯用のホワイトボードも持ってるんですね」
「あのひとも何をしているんだ……」
 びっくりしました、と言葉を続けて稲荷寿司を口に運ぶと、目の前で狐神がゆっくりと口を開くのが見えた。
 初めは唖然と丸く開いた形をとっていたそれは更に開いて愕然へと遷移してゆき、やがて彼の身までわなわなと震えはじめ、
「人を指さすのはお行儀悪くないですかにー」
 清水は端然と咀嚼し、そして嚥下する。
「お前」
 思いついて生姜の酢漬けを摘む。口の中が爽やかになった。これはなかなか。
「お前!!!!!」
 しゃくしゃくと心地よい歯触りを楽しんで、これもまた飲み込む。一噛みごとに生姜が強く香ったが、飲み込んでしまえば甘酢が口に染み渡って穏やかな食後となる。
「好きにしていいって言ったのは与一さんですし。稲荷寿司美味しかったです、さすがはあの角のお店ですね」
「当たり前だろうあの店の大刀自の味付けは県下随一なのだからな!」
 もはや怒っているのか誇っているのか分からない口振りで与一は胸を張ると、憤然と杯を干した。心得顔で徳利を差し出すと、勢いよく空になった杯が突き出される。徳利はなお乾く気配もない。
 優花は朗らかに笑った。笑いすぎて目元が涙で滲んだが、目の前の狐神はどうやらそれどころではないらしく、清水の様子に気づいた様子はなかった。
 人の外なる存在とて、どうやら子供にはかなわぬらしい。



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2016.7.7初出
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