夜の寝覚

 決して悪い夢を見ていたわけではなかったと思う。
 だがそれでも、夢から醒めねばならぬのだと、眠りの中にある牧本を揺るがすものがあった。あえて定義するのならばそれは呼び声に他ならなかったが、夢の中においてさえ、それは一体何者からの声なのか判然としなかった。ともかくも、その声に応じて牧本の眠りは潮が干すように深みへと戻ってゆき、彼女は覚醒に至る。
 二度三度、金色の目で瞬き。眼球を洗うように瞼が動くたび、視界に現実感が戻る。彼女の世界が確かな輪郭を取り戻すまで、数秒を要した。
 牧本が横たわるのは気に入りの籠の中である。熱の移った柔らかいタオルが体に心地よい。眠りの残滓が意識を引き戻そうとする感覚に理由も定かならず抗いながら、黒いハチワレ猫であるところの牧本は上身を起こした。前脚を強く籠に押し当てて体を引き延ばす。猫のバランス感覚は籠の重心を容易に制御し、牧本はあくまで優雅にあくびをした。そして、身を鋭く立てて部屋の中を――彼女の箱庭に注意を振り向ける。
 静かな夜だった。
 にもかかわらず、何かが彼女の心を乱していた。
 安らかな眠りから彼女自身を引き上げさせるほどに。
 猫の目は薄闇に浸された部屋を見通す。
 侵入者の気配はない。警戒すべきものはない。
 引き戸越しに聞こえる静かな唸り声は、冷蔵庫の作動音で。夜にあってはそれはやけに大きく響くようだった。
 牧本は耳を何度か振るわせると、冷蔵庫の唸りに追い立てられるようにして籠から身を乗り出した。そのまま滑らかに身を滑らせ、四肢で床を踏む。音を立てる無様は猫の身にはなかった。ただ、鈍く体にわだかまる眠気が、牧本の尾先を痙攣めいて震わせた。
猫であるところの牧本にとって、部屋の闇は何ら障害とならない。彼女の歩みは明確に行方が定められていて、迷うということがなかった。フローリングの床は寝起きの肉球にひんやりと涼しく、踏んでゆくうちに頭の芯が定まってゆくようだった。
 通りすがり、いつもの場所に置かれた水飲み皿に舌をつけて喉を湿す。室温にぬるまった水は口にすぐになじんだが、目覚めた理由が喉の渇きではないことは牧本が一番よく知っていた。
 なお歩く。
 床に直に積まれた雑誌を通り過ぎれば、それはもう目の前にあった。
 パイプベッド。黒塗りのフレームが闇に馴染む。
 見当をつけるために少しだけ立ち止まる。
 動き出せば、流れは一気に。
 ベッドの土台を突っかけるように踏み、マットレスに前足を掛けたら一気に駆け上がり飛び乗る。
 着地、一瞬の負荷に、フレームが抗議するように鳴いた。
 かち上げた後ろ足が、足元の柔らかさにずり下がりそうになるのをこらえれば、尻尾がピンと立つ。
 そんな風にして立った場所で、牧本は己の中のざわめきと対峙した。
 猫の目が見下ろすのは一人の少年の寝顔だった。
 知らぬ相手ではない。
 どころか、親しいと言ってよい。
 夏野蜻蛉。
 牧本より年長の高校生。今は一つ屋根の下に共にいる。
 彼がここで眠っている。
 夜なのだから、床に就いているのだから、眠っている、その筈だ。
 目の前にあるものを疑う理由は何もないのに、牧本は奇妙に確信を得られずにいる。
 本当にそれを信じてしまっていいのか、今ならまだ間に合うのではないか。あるいは、もう。
 何が間に合うのかもわからないまま、猫のつま先を焦燥感が舐めてゆく。
 視線の先、夏野は動かない。
 眠っているからだ。
 凍り付いたように静かに。
 死んだように静かに。
 夏野は眠っている。
 それだけだ。
 だというのに、それ以上体を動かすことが憚られる。牧本は足を止めたまま、息を詰めていた。視線を夏野から外すことができなかった。
 もしそうすれば、なにかとても大事なものが手から滑り落ちていくような予感がして。
 確かな手応えを得られなければ癒えず増殖してゆく虚無、その感覚を不安という。
 槙本の視線は、うろうろと夏野の枕元を離れない。
 乱れた髪が枕の上に散らばっている。毛先がよく遊ぶ長い髪。素直でまっすぐな髪質なのだ。物足りないと思えば、いつもの赤いヘアピンが就寝にあたって抜かれていた。
 そんな一つの差異のせいか、眠る夏野は思いがけず大人びて見えた。
 牧本は目を凝らした。
 差異はそれだけではなかった。
 鼻先に、頬に、思いがけない硬さがある。
 こめかみには骨を埋めた質感があって、首の輪郭には鋭く浮かび上がったような直線性がみてとれた。
 見知っていたようで、知らない姿がそこにあった。
 相手の存在がひどく遠いものに思えて、猫の口が意識せず甘く鳴き声を零した。
 今目に触れている彼の有様は、もちろん従来から彼に備わっていたものだ。ただ、静かに眠る今の夏野には、声と表情の幻惑が失せた分、肉体の存在感が強く表出していた。それだけ普段の夏野がこちらに年齢を気取らせないのだろう。
 それを心遣いととるか天性のふるまいととるかを迷って、結局牧本は思考を保留した。
 確か、四つ年上だった。そんなことを思い出す。いつもこちらの気を惹くように、明朗にも落ち着きなく振る舞う人だから、どうにも忘れてしまいがちではあるのだけれど。
 年の離れた相手なのだ。
 先輩、という言葉が脳裏に浮かんだ。それをこの人と紐付けることに違和感があるのは、その言葉に関係の隔絶を感じてしまうからだろうか。
(……が……って覚えてる?)
 今ではないいつか、ごく古い会話の断片が思考の底で揺れる。だが、それが誰と交わした会話なのかを思い出す間もなく、曖昧な記憶は脳裏から夜の中に滑落した。
 その理由はごく単純なもので、
「――――」
 視線の先で、夏野が何事かを唸りながら寝返りを打ったのだった。
 まっすぐ天井を見上げる姿勢で眠っていた彼は横に身を転がして、己の左腕を自分で抱え込むようにしている。
 それはつまり、牧本からしてみれば、自分の手前側に夏野が転がってきた形で。
 だから、牧本のごく目の前、髭を揺らすような位置に夏野の顔がある。
 すぷ、すぷ、と気の抜けるような呼吸音が聞こえる。
 胸の上がり下がりに由来する体の微細な振動も、ここからならば把握できた。
 生きている。
 生きて、眠っている。
 それだけの顔だった。
「…………、」
 安堵は猫の鳴き声としてこぼれ、それは思いがけず深かった。
 だが、それ以上何かを物思う余裕は、牧本には与えられなかった。
 なぜなら、
「…………――」
 不意に夏野の腕が伸び、牧本を布団の中へ掴み寄せたためだった。
 牧本としてはその反応は思考の埒外で、抗議の声を上げる事も出来ず、目を丸く見開いてなすがままだった。
 彼の動きは止まらない。
 妙に悩ましげな呻き声を伴ったまま、夏野は牧本を胸元に抱き寄せる。体を僅かに丸め、顔を摺りつけるような動き。
 それは眠りの中に半ば身を置くが故の無意識の乱暴さに満ちており、牧本は反射的に飛び出した爪の行方に気を揉む羽目になったが、
「…………」
 そうやって抱き込まれたなら、体の収まりどころさえ決めてしまえば、それはどうして居心地の悪いものではなかった。どころか、動きさえ止まってしまえば、タオルの寝床よりもだいぶ心地がよかった。
 体を抑え込む腕は硬くとも温かく、牧本の頭が当たる夏野の首元からは、熱のみならず心地よいリズムが感じられる。
 夏野の心音、血液の流れる確かな音。
 猫の頭上からは、夏野の寝息が安らかに吹いて牧本の髭先を揺らし、それはくすぐったくもあり、心地よくもあった。
「夏野サン」
 猫の喉で呟くと、むずがるような声とともに、彼の右手がざっくりと頬を撫でた。どうやら頭を見当したのだろう動きだった。
 このひとは全く仕方がない、という優越と安堵の混じった心地で、牧本はその手のひらに頬を寄せた。頬の毛並みが掻き分けられ、素肌に心地よい熱が籠る。
 よかった、と牧本は思う。
 己の喉がごろごろと鳴るのを抑えもせず、先程までの空虚が満ちていくのを自覚する。
 ここにいる。
 呼び掛ければ応じてくれる。
 いなくなってなんか、いない。
 ならば。
 もう無くならないようにしないと、と牧本の思考は続いた。その所以のものを深く思い出しもせずに。
 牧本は身をまっすぐに伸ばすようにして頭を夏野に寄せた。
 夏野の喉元近く、熱をねだるように猫の後頭部をぐりぐりとすりつける。身を離しても、僅かにそこに自分の匂いが残ったことに牧本は満足を得た。これがあれば、きっと見失わない。この人もきっと忘れない。
 こうして匂いをつけておけば、きっと大丈夫。 
 牧本は再び身を丸めた。姿勢を整えるために腕の中でもぞつくと夏野が奇妙な唸り声を上げたが、彼は牧本を拒絶することはなく、牧本は己の場所を夏野の腕の中に作り上げることに成功した。
 体を落ち着け、少々乱れた毛並みを舐めて整える。前脚の乱れを除いたところで、あくびが喉を突いて出た。
 熱と安堵にくるまれたおかげで、一度は去った眠りの気配が再び牧本を満たし始めていた。体を丸め直そうとしたが、それもなんだか無為な気がして、牧本は四肢の位置を整えもせずに放り出した。ここで眠るのなら、それでいいのだ。
 うとうとと幸福な温もりに融けてゆく思考の中、目を閉じた牧本はもう一度だけ夏野に頭をすりつけた。
 夜の不穏は去り、やがて朝が来る。



<END>





初稿:6/30/2015 
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