裏切りは缶切りの音をしている

 夏野蜻蛉は猛省していた。
 床に正座し、前に倒した手は揃えて床に着け、額をそこに抑えた土下座スタイル。
 もはや彼にはそうするしかなかった。
 全ては夏野が悪かったのだ。
 卓上には缶詰が一つ、開口した状態で置かれている。このツナのノンオイル缶、それこそが夏野の犯した罪だった。
 夏野は土下座の姿勢を維持したまま、注意深く視線を上に向けた。
 拝むように見上げる座布団の上には、閻魔もかくやという冷厳さで、黒のハチワレ猫が座している。
 夏野サン。
 行儀よく尻をつけて座った猫、牧本が鳴く。
 感情の起伏がいつもよりもうすくて、声が少し低い。
「そういうのはいいんで、説明してもらえますか」
「説明」
 上毛のひげが僅かに震え、猫の彩りのない尾がゆるく振れた。
 一拍の静寂。
 夏野が取り繕いの言葉を続ける暇もなく、音もない吐息に続く言葉は、
「なんでこんなことしたですか」
「……面白いかなと、その時は思ったので」
 再び猫の尾が逆端に揺れた。体に巻き付けるようにする。
 尾の動きとは打って変わって、その眼差しは揺らぐこともなく、
「実際のとこどうでしたか」
「面白くなかったです」
 牧本が少々考えを巡らせているような気配がした。
 蜜よりも怜悧に醒めた金色の目が、じっと夏野を見ている。それが分かる。
 生き物の眼差しに質量があったなら、という仮定は成立しえない、そんなことを夏野は思考のごく端の方で考える。
 今感じるこの視線に質量がなくて、何が存在の重さだというのだろう。ぐいぐいとこちらの胸を突くような、眼差しの強さ。
 猫でなかった時の彼女もそうだったのだけれど、彼女がみせる、関心を持ったものへのこの強い眼差しを夏野は非常に愛していた。
 この眼差しの力は、例えば猫缶を開けてやる時などにも顕著である。
 缶を開く軽い音が響いた時の、彼女の期待に満ちた大きな瞳とその眼差しは非常に魅力的で、さらに喉を鳴らす声が付随したりなどもするものだから。
 ついヒト用缶詰を猫缶のふりをして開いてでも、その様子を見たいと思ってしまうのだ。
 無言のままの夏野に、ふと牧本が首をかしげた。彼女は髭を揺らし、
「ホントですか」
「本当です!」
 慌てて言い募る。
 夏野にとって、思考とは発散と過集中を繰り返すもので、一ヶ所に留まり続けるものではない。それは彼に思考の飛躍や行動の突発性を与える特性であり、夏野の個性を語る上で重要なものではあるのだが、だがその散漫さはこの場にあっては不実な動きでしかなかった。
 このあたりの夏野の特徴については、付き合いの長くなってきた牧本もよくよく承知していて、夏野への追及の手が続く。 
「今の目はちょと考え事それてなかったですか」
「そんなことは決して」
「じゃあコメント何か」
「ごめんなさい、ええとごめんなさいを言うのが遅れてごめんなさいもうしません」
 畳みかけに対する応答は、既に頭の中にはあったのだが、どうも口に出すと情けない。
 情けないと言えば、全ての事の起こりが情けないのだが、それは措く。
 牧本はもちろんそれだけで納めない。
 乳色に透けるようなかぼそい牙が口元から覗き、
「反省は」
「態度で表します」
「例えばそれは」
「プレミアム猫缶、セールで出ない奴で一つどうかな」
「即物的ですね」
 瞬発的な言葉のうち返しが続く。
 言葉選びこそ硬質だが、声色は少しずつ柔らかくなってきた、と夏野は分析した。
 ただ、自分の口から紡ぐのは、機嫌を取るためでもない言葉で、
「それ以外に謝り方を知らないものだから」
 つと牧本が座布団から降りた。尻尾をつんと立て、澄ました足取りで夏野の傍らを行きすぎる。
「油の入ってないツナ缶だったら」
 するり、と夏野の腿を牧本の尾が舐めた。
 そのまま通り過ぎるように見えた尾の先が、吸い付くように停まる。毛先だけが触れ合うような、ごく柔らかな接触。
 夏野が促しを感じて振り返ると、同じように顧みる姿勢の牧本と目が合った。
「――一緒に食べられる、ですよね」
 目許を僅かに丸くした彼女は、夏野にだけ判別できる甘さで鳴いた。



 缶詰の中身を互いの皿に分け取ると、それはあっけないほど少量になった。所詮はツナ缶一つである。
 猫である彼女にはともかくとして、人間である夏野には、間食というのにも物足りない量だったが、勢いで開けたところもあったので仕方がない。
 夏野は牧本に皿をすすめ、自分も箸を取る。
 すると。
 夏野サン、と皿を覗き込んだ牧本が鳴いた。
「どうしたの」
 恐々として尋ねると、ハチワレ猫は眉をひそめるようにして呟いた。
「コーンはちと、度が過ぎると思う、です」
 これからはシンプルなツナがいい、と牧本はゴロゴロと鳴いてこちらを見上げる。
 ああ、まいったなあ。
 夏野は次回の買い物リストの一端を脳裏で書き換える。
 人はネコには逆らえない。


<どっとはらい。>





初出:2015/06/02 http://www.twitlonger.com/show/n_1smg8dq
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