通話

 夜更けの電話の主はいつも決まっている。
 だから牧本は、着信表示の名前を確認すらしなかった。
 3コールで通話開始。他の通話を取る時よりも、本の1,2秒早いというのは自覚もしていない。
『こんばんは、今大丈夫かな』
 いつものように名乗りもしないかすれた声。
 あの放課後の時代から比べると、この人の声はだいぶ低くなったような気がするけれど、このせっかちさは当時からあまり変わらない。
「そっちだとおはよう、なんですけ夏野サン。こっちは大丈夫ですよ」
「そう、よかった。久しぶりに声が聴きたくて」
 大学卒業後、彼は紆余曲折を経て野生動物のカメラマンとして世界の荒野を巡っている。
 そこに至るまでのエピソードは語りつくせないほど知っているけれど、それをここに書き記すにはあまりにも時間と余白がない。
『この間写真を送ったんだけど、どうだった? 結構良いかな、って思ったんだけど』
「ああ……」
 牧本は部屋の壁を見た。
 パンタナール、ナミビア、ユーフラテス、シベリア、耳馴染みのない音を連ねる大森林、沼沢地、砂漠、サバンナ、それらの風景を切り取った写真が幾枚もピンで止められている。
 それらは全て夏野が送ってきたものだ。
 今牧本が見る一葉は、その中でも特に萎れたものだった。
「実は、雨濡れか何かで傷んでて。良し悪しはちとわかんないです」
 熱帯雨林の濃い緑の中、浮かび上がるように鮮やかな大型の嘴をもつ鳥。印画紙に切手を張り付けてそのまま送ってきたものだが、雨水で傷んでいたのか、被写体の姿はおぼろげに残るきりだった。裏面には、南米にいるという彼の消息。幸い油性ボールペンの筆記だったおかげで、手紙が読み取れたのだけでも幸いだった。今はそれ以上の傷みを恐れて、フィルムに封じて壁に留めてある。
「はは……そっかあ。横着をするもんじゃなかったなあ」
「今度戻ってきたときにでも。あれオニオオハシですよね。きちんとした写真で見たい」
 夏野は少し考えたようだった。
 ふと、その沈黙の背後から聞こえたものに、牧本は若干の違和を得る。
『……そうだね。持っていくよ。実は、少し撮影の方は手が空きそうでね、』
「夏野サン」
『うん』
「今、どこにいますか」
 今度こそ夏野は絶句し、その無言の中で牧本は決定的な音を聞いた。
 遮断機の下りる警戒音。
 それは今、牧本のアパートの外から聞こえてくるものと完全に同期して、
「バレたか」
 苦笑の声にも構わず、牧本は部屋のカーテンを除け、窓を開け放った。
 眼下、十一月の寒さに鼻の頭を赤くした懐かしい顔が、照れくさげに笑ってこちらを見上げている。



<END>



「実は今度南米旅行記を本にしてもらえることになって急遽こっちに」
「もっと先に言ってくれてよかったですが」
「……いや、これを一番に言いたくて」
「直接?」
「直接」
「仕方ない、ですね」







初出:2014/11/17 http://www.twitlonger.com/show/n_1sigmmh
改稿:2014/12/6
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