Divergence

 少し不思議だな、とは当初にも確かに思った。だが、どうやらその意味に気づくにはあまりにも遅すぎたし、きっと俺が手に入れたところで、それは適切な式に代入することの出来ない"数"だったのだと思う。だから、俺はその答えを抱きながら退場する他ないのだ。
 この季節にしては冷たい水を胸の中に満たしながら、市瀬の夢見るように冷静な最後のかけらはそんなことを考えていた。


 Divergence


「今日は俺が吊りか。あっけないな」
 開示された投票結果に、市瀬は肩をすくめた。議論の流れで覚悟していた状況だったが、処刑者に突き付けられがちな"自分以外全員が自分に投票"という結果は少々堪える。
 ゲーム会合宿二日目夜。11の机をコの字型に並べた人狼・会議部屋は、その"第二日目・昼"が終了したところだった。合宿の目玉として企画された人狼は夕食を摂ってからの夜間耐久ゲームということで、若干の眠気も懸念されていたものの、いざふたを開けてみれば会議は活況だった。議論時間はあっという間に使い果たされ、"二日間"の帰結がどうなったのかは眼前の結果が示すとおりである。
「処刑者と被襲撃者はゲーム終了まで別室待機、だよな。どこに行けばいいんだ?」
 事前に配布された合宿のしおりをめくりながら、市瀬は梅ノ木に視線を向けた。今回の合宿の立案者は梅ノ木で、スケジュール作成から合宿のしおりの作成まで、一貫して梅ノ木が指揮をとっている。余談であるが、しおりデザイン担当は東雲で、彼女は挿絵の一カットに至るまで、遺憾なくその美術的センスを発揮していた。特に裏表紙の「尾崎にアイアンクローで吊るされる夏野〜狼と花〜(写真コラージュ)」はコピー印刷に耐えうるハイコントラストの作品で、見るものに強烈な印象を焼き付ける怪作だった。
 というわけで、事前に確認しておけばよかった、と思いながら市瀬は彼に案内を受けようとしたのだが。
「あ、待ってください」
 椅子を引く音が梅ノ木と市瀬の注意を惹いた。
「――確白向け処置メモってことで、対応来てます。市瀬さん、今から案内しますね」
 梅ノ木の言葉を奪うようなタイミングで席を立ったのは清水だった。
 清水は唇を引き結んで梅ノ木と視線を合わせた。清水と梅ノ木の視線が粘度を持って絡み、そして解ける。普段の二人の、気の置けない先輩と後輩という関係にしては奇妙な緊張がそこにはあるように感じられた。
 市瀬は梅ノ木を伺った。
 ふむ、としばらく思案した様子で梅ノ木は頷く。
「……なら、処刑関係は清水に任せるとして、後は他のメンバーな」
 梅ノ木は残り八人の座席を見回した。
 後小路が心の弾みを隠さない表情で姿勢を正した。こんな時の佇まいがいかにも育ちが良い。
 津田は机に肘をついてよりかかったまま、ややすがめがちの視線を投げる。
 星見夜は手元のメモ帳を開いて、授業を受ける生徒のように。ペンに張り付けたシールが一点、年相応の少女趣味だった。
 牧本は少し猫背気味の姿勢で。いつものように表情の読めない顔をして、ぶれのない眼差しで見上げている。
 尾崎は腕を組んだまま、何か考えている様子だった。沈思な視線が重く梅ノ木を辿る。
 空閑は僅かに口元を笑みで和ませたまま。彷徨いがちな視線は、彼にしては珍しくふらつきがない。
 東雲は指先で危なげなくペンを回しながら、いつも通りの狐めいた笑みをたゆたわせている。
 そして、最後の一人――は座席に姿がなかった。既に菓子テーブルの辺りまで歩いていた夏野が、悪戯に気づかれた子供のような顔で振り返る。
 夏野の様子に梅ノ木が嘆息したものの、すぐに彼は気を取り直し、
「残りのメンツは30分間各自休憩で。再開をスムーズにするためにも、5分前にはこの部屋に戻って来てほしい。本日の被襲撃先には別途連絡がいくのでそのつもりでよろしく。んじゃ、しばらく解散!」
 アナウンスの完了で、場の空気は完全に弛緩した。
 牧本が猫のように伸びをし、津田が机の上に倒れ込んで動かなくなる。
 さっそく椅子を立ち上がった連中は、部屋の奥の一角で、菓子置き場になっている机を囲んでいた。夏野が夜食用袋菓子に早速手を出そうとするので、星見夜が信じられないものを見る顔で夏野を見ている。夕食時点、夏野の胃袋には相当量の食事が入っているのを市瀬も現認しているので、星見夜の表情は感覚として理解できる。敏捷に立ち上がっていって、夏野の手元を覗き込んでいる後小路などは楽しそうに囃しているが、あれ、実質びっくり人間ショー扱いなのではあるまいか。
「市瀬先輩?」
 清水の促しに、市瀬は賑やかな一角から目をそらした。この場から離れがたい気持ちになっている自分を自覚する。
 ルールだから仕方がないが、せっかくの合宿だというのにこの隔離システムは少々さびしいものがあった。市瀬は外部の高校受験を予定している。来年はもうこんな合宿に来ることもないだろうが、反省会があれば意見として挙げておこう、と心に留める。
「ああ、すまん。待たせてるな」
 文房具としおりの類を束ねて抱えるだけで、市瀬の移動の準備は完了する。この部屋に持ってきている荷物はこれだけだった。"翌日"のメンバーが来るまでには時間があるだろうから、宿泊部屋から読みさしの数学雑誌を取りにいこう、と決める。いや、TRPGのルールブックでもいいかもしれない。昼間にやったセッションは出目の悪さもあって結局完結せず、夏休み中にまた遊ぶ予定になった。今のうちに手持ちの技能と合わせて行動を考えておくのも面白いだろう。
 清水に一つ頷いて歩き始めた市瀬の背に、声が掛けられたのはその時だった。
「市瀬」
 首だけで振り返る。
 声の主は椅子に腰を下ろしたままの尾崎だった。
 いつものようにタオルを額に巻いた年かさの少年は、声を掛けた自分自身に驚いているようでもあった。
「何だ尾崎」
「あ、いやーー」
 質すような市瀬の視線に、尾崎はしばらく視線をさまよわせた。
 市瀬はしばらく彼の言葉を待ったが、結局尾崎は市瀬の顔を再び見ることはなかった。
「――悪ィ、何でもねえわ」
 短い髪を乱暴に掻く、その動作が市瀬の視線から自分を隠すようだった。
 市瀬は眉を寄せた。尾崎は、例えば夏野や後小路のように饒舌なタイプでこそないが、もっとはっきりとしたものの言い方をする人間だったはずだ。
「歯切れが悪いな。言いたいことがあるなら言ってくれ」
 声は、思いのほか苛立ったものとして表出した。
 市瀬は内心で自分のしくじりを感じていた。周囲からの注視を感じる。
 東雲は怪訝な顔でこちらを伺っているし、後小路は目を丸くしているし、梅ノ木の視線も感じる。そのうえ、菓子袋を手にしたままの夏野が、珍しく無言でこっちを見ていたりする。最後の一人は、こっちはいいからその菓子袋をどうにかしろ。
 わずかな、静寂。
「ふふ、そんな顔をしなくたって、別に今生の別れってわけでもないだろう? 市瀬もさ」
 茶化すように割って入ったのは、珍しいことに空閑だった。
 どうやら場を和ますための彼なりの気遣いのようだが、市瀬としてはその言葉選びは少しどうかと思い、
「空閑も妙な茶々を入れないでくれ。ただの部屋移動が、どんどん大袈裟に聞こえてくるじゃないか」
 空閑は肩をすくめて視線をくるりと回してみせた。それは、彼にしては珍しくおどけた所作だった。
「何事も人生の中では劇的なものだろう?」
「俺は、ごく短い区間に極値が連続して転がってるような関数を人生として望んでなくてな」
「もちろん、赤道に移動するのもいいと思うよ」
「極地の話はしていない」
「僕は文系選択なものだからね」
 状況を見守るようにこちらを見ていた後小路が、ここでとうとう吹き出した。笑いを含んだ声が、市瀬と空閑の間に飛び込んでくる。
「Kさん今日はキレッキレだねっ! いいテンポだった!」
「こういう時のために鍛えているんだ」
「ひよりん知ってる!能ある鷹は爪を隠すってやつだね!」
 快の気配が濃い後小路につられたのか、空閑は心なしか胸を張ってみせた。
 当初の緊迫感はとっくに消えうせていた。
 それに安堵したのかどうか自覚できないまま、市瀬は尾崎に視線を戻した。いつになく背中が小さく見えた。
 一つ吐息する。
「俺のことより、尾崎は今日の占い先、しっかり考えてくれよ。占い候補なんだし、せっかく生きてるんだからな」
 尾崎は額に巻いたタオルを僅かに引き下ろし、視線を隠した。
「ん……そうだな」
 さらに小さな呟きが数語続いたようだったが、市瀬には聞き取れなかった。
 必要なことならば、別のタイミングで聞くけばいい。そう思って、市瀬は尋ね返すことをしなかった。今は、清水を待たせているのだ。
 その尾崎の様子の一部始終を、尾崎の向かいの席に座る津田は笑みのない顔でじっと見ていた。彼の沈黙を見咎めた梅ノ木が、津田の視線を遮るように彼の顔を覗き込む。
「なんでここで津田ァまでシリアス顔になんだよ」
「うるせえ、なんでもねえよ」
 顔をしかめた津田が派手に手を振って梅ノ木を遠ざける。彼もまた占い候補だった。思考が詰まっているのは尾崎も津田も一緒なのだろう。夜時間の思考風景が見えるというのも善し悪しだと思った。
 梅ノ木は肩をすくめると、何か思い出したような顔で辺りを見回し、星見夜の方に歩いて行った。梅ノ木が何かを伝えると、星見夜がぱっと乗り気の顔になる。細かいやりとりまでは聞こえなかった。
 市瀬は、立ち去り際までそんな会議部屋の様子を名残惜しく見ていた。だから、自分に先だって扉を開けた清水が、その時どんな表情をしていたか、市瀬が知ることはなかった。



 夜に沈んだ校舎を、懐中電灯の頼りない白光で切り裂きながら二人の少女は歩いている。
 清水は先を急いでいるようだった。市瀬の寄り道は遠まわしに禁じられた。市瀬が行き先を尋ねても、なぜか彼女は沈黙を堅持する。普段柔和な清水の表情は奇妙に硬く、それがために市瀬と言えど強い誰何が憚られた。
 常夜灯の掲げられた渡り廊下を抜けたとき、頭上で何かが弾けるような音が聞こえた。反射的に見上げた市瀬は、カナブンが常夜灯のプラスチック板に再びぶつかるのを見た。靴を履きかえて外に出る。
 沈黙のままに市瀬が導かれてたどり着いた場所は中高共通の屋外大型プールだった。目隠しに植えられた常緑樹が、輪郭を深く夜に沈めていた。許可なき立ち入りを禁ずる、金属製の開き戸に掲げられたお決まりの注意書きを、この委員長然とした少女はあっさりと破って侵入する。鍵を持っていたのか、錠前を解くのにさして時間もかからなかった。
 少し待っていてください。
 プールサイドに市瀬を導くと、そう言い残して清水は屋外シャワーの影に入った。何かを探しているようだった。
 市瀬はプールを見下ろす。黒々とした水面に、ごく薄いドレープのような波が立っている。少しだけ風があって、水辺の夜気が薄着の袖から染み入るようだった。
「市瀬さん」
 やがて清水が戻ってきても、市瀬はなおプールを覗き込んでいた。日常から乖離して何もかも飲み込んだような水面は視線を離しがたく、思考ごと呪縛していくような錯覚を与えた。
 もう一度、彼女が市瀬さん、と呼んだ。
 市瀬はプールから目をそらして清水――確定霊能力者となった少女を見た。
 清水は気圧されたように僅かに瞬きをし、けれども、目を伏せることはなかった。
「今回の人狼は……『ゲーム』ではありません。でも、その一方で、どうしようもなく『ゲーム』でもある」
 意味が分からなかった。彼女はもっと、歯切れのいい言葉を扱う人間だと思っていたのに。
 夜のプールサイドの会話は、言葉遊びめいた問答となって続いた。
「『ゲーム』はゲームでしかないだろう」
「残酷なことを言います」
 打撃音。プールサイドを打つ。
 後ろ手に、清水が何か重いものを落としたようだった。
 それそのものは彼女の影になってよく見えなかったが、その落下音は質量を推し量るに十分だった。
「貴方は、処刑されます。言葉そのままの意味で。カードを渡してもらえますか」
 カード、配られたカード。
 市瀬が持つのは汎用の村人札。もっともありふれていて、それゆえに、なにより狼を追い詰めうる役職札だった。
 そうか、判定に必要なのか。ぼんやりと合点した。
「――村人、ですか」
 カードを受け取った清水が唇を噛むのが分かった。
「ごめんなさい、とは――言いません」
 市瀬は、なぜか清水の話をつゆほども疑えずにいた。
 彼女は荒唐無稽、残虐極まりない話を、明らかに不条理なルールを語ったのに、市瀬はそれが嘘ではないと確信していた。正確には確信の能動性とも違う。"そう"であるから"そう"なのだと、当たり前に呑み込む。数学の設問において、与えられた数字を疑う必要はないように、清水のもたらした『ゲーム』という情報もまた、そんな自然さをもって市瀬の中で消化されていた。
「最後に一つ教えてくれ。……『ゲーム』が『ゲーム』ではないのを、みんなは知っているのか?」
 清水は少しだけ遠い目をして、いいえ、と言った。
 それは、設問を読み取り、チョークで一つずつ必要な式を展開していく、そんな時に黒板を見るような眼差しだった。式の解法を解説するのと同じ口調で、一つずつ吟味した痕跡のある言葉を彼女は紡いでいく。
「貴方がそうであったように、村人はみんな、知らないと思います。きっと本当の状況を理解しているのは役職者――占い師、霊能者、狩人、狂人、それから二人の狼。その6人だけ、じゃないでしょうか」
「そうか」
 ゲーム会の人数は、11人。
 初日の襲撃はダミーカードを使っている。
「じゃあ俺は。さっき、半分以上の人間に死んでもいい、と言われていたわけなんだな」
「そんなことは」
「『ゲーム』が『ゲーム』でないなら、そういうことだろう?」
 言葉は冷徹なものとして表出しこそすれ、市瀬に清水をいたぶる意思はなかった。
 悲しみとも違う、ひどく冷えて透明な気持ちが胸を満たしていた。
 辛いとは思わなかった。
 ただ、数学の問題を解いていく過程に似た、晴れ晴れとした思考の加速、一気に拡張された視界の透徹があった。それは、追いすがる感情を全て置いてきぼりにする、彼方への飛翔だった。
「そういえば」
 思い出したように市瀬は口を開いた。
「さっき、教室で清水は言ったよな。"確定白向けに対応が来ている"って。あれさ、……本当は嘘だったんだろう?」
「どうしてそう思うんです」
「梅ノ木も知らなかったように見えたから。そして、これが『ゲーム』なら……隠した方がいいと、そう思ったんだろう、清水も」
「市瀬先輩。それは、……買いかぶりです」
 市瀬は少し笑った。
 それはごく当たり前のようにこぼれてきて、可笑しかった。目の前の清水は、こんな顔をしているのに。
「いいよ、どちらでも。清水が隠そうとするなら、俺からは確定しない話だからな」
 気負いなく数歩を踏んで清水を追い越した。そうして歩いた目の前には、くろぐろと静かな莫大量の水があった。足が届く程度の水深だと、頭では理解しているのに夜の水は奇妙に深く、あるいは名も知られぬ太古の蛇体のようだった。
「なあ清水、それ、渡してくれないか」
 清水を振り返ることなく市瀬は請うた。
 先ほど清水が落したもの、その正体を推測するのなら、この場所と清水の意図、代入すべき変数はそれだけで事足りていたので。
「お前がするつもりだったんだろ?」
 水面から目を離して見上げた空は、燦然と星が散っていた。
 夏の空、上弦の月。
 その上にかかる赤真珠のような火星は争いの星。
 まだ母親との行き違いが少なかった頃、そんな神話を教えられた記憶がある。今となっては遠くなってしまったそれが、少しだけ懐かしく思えた。
「俺が、自分でやるよ。あの時初めに動いたお前はきっと、これからそういう道を選んでいこうとしているのだと思うから」
 夜空も、プールの水も、ゲーム会の記憶、プールサイドに立つ自分すら。
 今ここにある全てが現実から乖離しているようで、だから、市瀬は自分の背後から聞こえた小さな声に気づかない振りをすることができた。
 プール外縁を囲う梢近い南の空。蠍座の赤い心臓、火星の対抗者の名を持つ星が昇り初めていたのを、なぜだか奇妙に覚えている。



 ……反射的に水を掻く手足の動きを、結局市瀬は止めることが出来なかった。
 例え、とうに水面に指の爪先すら届かなくなっていたのだとしても。
 意志の力で硬く引き結んでいた唇は、激しい動きで酸素が消費され切った苦しみにぎりぎりのところで耐えていたけれど、いつ決壊するかもわからなかった。髪をまとめていたバレッタはいつの間にか外れていて、結い上げていた髪は水の中で花のように咲いていた。
 水の中、それでも市瀬の頭の最も理性的な部分だけは、合宿の記憶を何度もリフレインしている。それは、意志による理性の労働の結果というよりも、耐えがたい苦痛をこらえるために自分を切り離し、目覚めながらに夢を見るような働きだった。
 梅ノ木の発案で始まった合宿、用意された人狼ゲーム。
 この人数で遊ぶのは久しぶりだった、だからみんなが乗り気だった。仕切りは梅ノ木だった。定刻になり、座席の準備が整った後、梅ノ木が札を切って全員に配った。
 男にしては線の細い指先で、カードを配る――このあたりで、何かを感じたのだ。そうだ。少し奇妙だった――あれは。
 ――酸素の渇望に、肉体を司る最も原始的なものが敗北した。
 ごぼ、と喉奥から一気に空気が抜ける。入り込む水の暴虐。異物を吐き出そうとする反射は、今はむしろ酸素を放棄するだけの働きで。舌上を滑る塩素の気配、蹂躙、呼吸、肺から吐きだされた空気にも酸素は残っている、肺の中で酸素が吸収されたのちの空気の酸素濃度は13%、それを下回る空気を吸うと、意識は、酸素濃度のカーブ、
 違う、そんなことじゃない。
 肉体の苦痛に発散していく思考の切れ端を捕まえる、現実から抜け出して、曖昧になる記憶の中から連鎖を引き出す。
 何か、大事なことを思い出そうとしている、そんな予兆があった。
 水面に向けて駆けあがる気泡、そのきらきらとしろい。
 昇る。
 弾ける、弾けた、散った。
 繋がった。連想が。
 あれは、始まりの時のこと。
 人狼の役職カード一揃いを切り混ぜたのは梅ノ木。
 切り混ぜたカードを卓上に広げる、卓を囲む梅ノ木を含めた11人が一枚ずつ引いていく、一人だけカードの群れから少し遠かった、「そこ遠いだろ、」、だから梅ノ木が一枚指で弾いて、カードを。
 梅ノ木が選んだカードを、渡した。
 ここだ。ひっかかりは。
 あの手に渡ったカードは、梅ノ木が選んだ。
 例えばカードゲームの手札山の選択、例えば役職カードの選択。そういった「選択」の絡む場面で、選択を代行して渡すという、その不自然。その不可解。
 あの時梅ノ木の指先が導いたのは、そのカードを受け取ったのは、
 目的は分からない、理由もわからない、ただ、何らかの意図だけがかすかにそこにある。
 プールの波を越えて月が見えた。
 藍色の水天井の彼方、輪郭を波に砕いた月の光。
 最期の理性が確かに与えられた式を展開し、解き、二本のスラッシュを刻みいれる。
 あのカードを受け取った手、その持ち主、その顔。「そこ遠いだろ、」。指から指へと渡ったカード。梅ノ木。骨の輪郭のはっきりした指先。大人びた。声。低くて穏やかな。時に覇気が薄いようにも響く。声。その名は。「別に今生の別れってわけでも」。笑う口元。「ないだろう?」。笑う。笑う。「市瀬、」。笑う。口元。「今生の別れってわけじゃ」。笑う。
 市瀬の砕けゆく理性が皮肉な笑みを形作った。
 ああ、嘘だらけだ。
 何もかもが遠ざかってゆく。
 足元から崩落するような虚数解。
 こんな解答しか、俺の式にはないのか。つくれないのか。
 煩悶と自虐めいた冷笑――だが、市瀬の肉体はすでに時間切れを迎えていた。一瞬を永遠に引き延ばすような理性の末期の歌<スワン・ソング>も、とうとう幕切れであった。
 心臓と呼吸が停止し、欠乏した酸素が脳細胞を殺してゆく。その結果として、見知った相手を描き出した思考と記憶は水の中に滲み、虚ろな解答として呼んだ名前は最後の酸素とともに波の彼方へ昇り、水底に沈んだ重石を支えに、もはや明晰な意識の宿らぬ市瀬の体だけがプールの中を漂っていた。墓標のように、外れた眼鏡が着底する。
 プールの波はしばらく荒く揺れていたが、やがて風の中に定常を得て、さざ波の渡る狭間に夜と、なおプールサイドに佇む一人の影を映した。
 今この時において、市瀬のあらゆる式は発散し、もはや現世にいかなる影響も残さなかった。



【解】虚数でも良いから解が欲しい 市瀬寧色 は村人達の手により処刑された。
――《★霊》 【解】虚数でも良いから解が欲しい 市瀬寧色 は 人間 のようだ。

<END>





初出:2014/07/10 エピローグ投稿
改稿:2014/10/18
改稿時BGM:中島みゆき「荒野より」
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2014 @huhgi