狼少年の転向

 部室の扉を開き、牧本はおや、と思った。
 そんなに早い時間ではなかったのに先着は一人きり、それも意外な人物だったので。
 先行者は扉の音に反応してこちらに視線を投げており、
「二番乗りは君か。人が来なくて寂しかったところだよ」
 柔らかい声音で手元の本を閉じたのは、空閑景史郎、ゲーム会の現在最年長だった。彼はつい数週間前に梅ノ木が連れてきた上級生で、それからちょくちょく顔を出すようになった存在である。珍しいことに彼が手にしていたのは大判本で、いつも侍らせているような、やたら古めかしい表題の文庫本ではなかった。あいにくと駅前の大型書店のカバーがかかっていて、書名までは分からない。
「ども、です」
 牧本は空閑とはまだあまり話し込んだことはない。先週、少人数で人狼を遊んだ折に、2日目死亡同士時間潰しにオセロを遊んだ程度である。少々居心地が悪く感じたものの、ここまで来てしまったのだし、帰るわけにもいかない。どうせ、他のメンバーがすぐに来るだろう。ひとまず、向かい合わせに寄せられた机に牧本もつくことにする。
「人いないの、珍しですね。梅先輩とか早いのに」
 空閑は本を傍らに置いて、視線を下げるように頬杖をついた。
「どうも高2の連中、軒並み補習を喰らった様子でね。彼ら、一時間は来れないらしい」
 苦笑交じりではあったが、声色に嫌味はなかった。
 鞄を下ろして空閑へ対面気味に座った牧本は、小さく首を傾ける。
「東雲サンもですか」
「そっちは演劇部のゲネプロ前の調整とのことでね」
「はあ。夏大会ですけ」
「そうそう。大会までもうしばらくらしいじゃないか? メイクの最終調整だと聞いた」
 そういえば、東雲からは大会日程を教えてもらっていたような記憶があった。それは確か八月の頭のことで、上演すると言っていたのは、
「童話を元にしたオリジナル劇でしたけ。なんか――えっと。……自由になるやつ」
 牧本は、空閑が少々解釈しかねる表情のこわばらせ方をするのを見た。さて、間違ったことは言っていない筈だが。
 天使が数歩を踏んだような、沈黙。
 癖のある髪を掻き、空閑が一つ頷いて、
「なんというか、驚きの抽象化だな……雪の女王ネタらしいね」
「あい。東雲サンが面白いって太鼓判推してたです。特殊メイクも凝る。とか」
「頑張るなあ」
 苦笑が落ちたところで、空閑の懐で携帯電話が震える気配があった。ん、と空閑がスマートフォンを取り出し、ぎこちなく指先で操作する。
「ん……後小路だ。今日は実家で用事が出来たそうだな。他の中等部、何か聞いてる?」
「星見夜サン、清水サンは学年を越えて教官室に呼び出しです。理科のセンセのお手伝いとかで。ちょっとかかりそげでしたね」
 ふうん、と空閑は椅子によりかかった。
 彼の考えていることは牧本にも分かる。この状況はつまり、
「しばらくはみんな来ないわけか…どうしようか、囲碁でもする?」
 牧本は、少し考えた。囲碁が出来ないわけではないが、あまり得手でもない。それに加えて、即座に連想したのは清水からもたらされていたある情報で、
「マーブルチョコは手持ちがない。ので、オセロどですか」
「あの後、梅ノ木が囲碁セット入れてくれたんだが……」
 どうやらマーブルチョコは標準ルールではないらしかった。一抹の安堵を得る。
 そういうことなら囲碁も選択肢としてアリか、と思うのだけど、
「出来たら一度、オセロリベンジしたいです。こないだ負けたの。なかなか対戦ゲーム出来ないですから」
「そう。ならオセロにしようか」
 オセロボードを棚から取り出し、コマの山を等分にする。
「表裏どっちにするかい?」
「んじゃ裏で」
「では、僕が表だな」
 コイントスの10円玉が表だったので、空閑の選択の結果、空閑が黒、牧本が白を取る。薄いプラスチックのコマがちりちりと鳴った。
 打ち始めて数手、二色の意志が探り合う盤面の上は無言に凪いでいる。
 何かを言うべきだろうか、壁際への道を打ちながら牧本は考えた。間合いがつかみ切れていない相手に話を続けるのはどうも苦手だ。ゲームに甘えて黙っていてもいいだろうか、そんな思考がよぎった時。
「そういえば、動物に詳しかったよね」
 角への攻め気を漂わせた一手を置きながら、何気なく空閑が切り出した。
「……狼とか犬の子どもって、どうやって肉を食べ始めるか知ってる?」
 意外な話題ではあった。話題選びの意図は見えないけれど、ただ、得手のネタを振ってくれたのはありがたい。
 牧本は少し考えた。
 卓上に落ちる磁石の接着音も慎ましく、黒の伸びを抑える一手を打ち、
「そですね。乳離れするときは、親が肉を吐き戻して与えるですよ。ちと消化されたようなの」
「吐き戻して」
「はい」
「そうか……」
 その様子は意外なほど消沈して見えた。
 主戦場とは僅かに離れたエリアを空閑が抑えに来たので、牧本は自分の一手でその頭をぴしゃりと抑える。反転したコマ数こそ少ないが、これで白がわずかに有利な位置取りだ。 
「仔犬にでも興味あるですか」
 空閑は少し考えた素振りで、顎に手を当てた。盤上をゆっくりと視線が撫でる。
「少しね。うん、そうだな、……もしかしたら世話をすることになるかもしれない。乳離れしたかどうかも分からないんだけど」
 言葉に重ねて空閑の手が黒を置き、一つコマを裏返した。
 黒が打ったのは防衛の一手だった。白をとがめつつ、自陣の今後の伸びを見据えたしたたかな手で、牧本は少々考えさせられる。
「んん。離乳した仔犬ならお湯……というか、温い水でふやかしたペットフードですかね。おかゆみたいにしたやつ。それを一日に何回かに分けて与えるですよ。仔犬お腹ちっちゃいから」
「ああ、成程。それで離乳食になるんだ」
 あい、と頷いて、結局牧本は手つかずの壁際へ打つことを優先した。壁面を抑えて伸びを図る。
「フードも仔犬用のありますんで、それで。離乳直後なら、ミルクを少し加える場合もありますね」
「ミルクは牛乳でいいの?」
 空閑の対応は即座だった。牧本の打った列、間に空白を開いたまま逆端を伸ばす。いずれ一手を飛び込ませて、白を切り取る狙いと見えた。
 牧本は椅子に座り直し、盤面を覗き込む。
「あー……ペット用ミルク、ヤギ乳ですね。仔犬期は牛乳でも消化できるって話きいたことありますけど、ちと自信ない。です」
 局中盤となってきて、そろそろ盤面を見通すのが難しくなってきた。外側を囲いに行くか、穴を潰すか、あるいは。
 ただ、その前に一つ気がかりがあった。
 牧本は一度コマを手元に置いて空閑を見上げた。気を引かれた様子で空閑が顔を上げ、視線が合う。どこか眠たげなものと見えていた目許が、こうしてみるととても大人びているようで、牧本はうっすらと気おくれを感じる。実際、牧本と空閑は四つ五つは年が離れているのだ。
「……えっと。なんかご事情あるのかなって思うですが」
 カチリ、分離していたコマの双山が磁力で結合する乾いた音。
 空閑の黒い瞳は髪の毛ほどの揺れもなく、牧本を見ている。
 その目が静かすぎて牧本は続ける言葉に迷う。どこから始めれば、伝える言葉の真意がきちんと相手に届くだろうか。動物との適切な関わり方を人に伝える、そういう経験を牧本は持っている。相手が動物に依存しがちであったり、逆に動物との関係が希薄であったりすれば、動物が本来必要とする措置を軽んじる場合もあるからだ。
 空閑がどういう人物なのかまだ十分にわからず、相手の事情も分からない状態で話を進めることにためらいがないではなかった。だが、それでもこれは言うべきだ、と牧本は判断した。相手が可能な限り飲み込んでくれるような、そういう言い方を探さなければ、とも。
 牧本は一度深く呼吸し、喉元に張り付いたような緊張をほぐす。
「あの。生まれたばっかの犬は、できるだけ兄弟犬や親と一緒に過ごさせたがいいんです。犬の中で育てば、自分のこと犬だってちゃんとわかりますし、犬のルールも覚える。お店だと生まれて二月くらいの仔を売ってることもありますけど、ホントは三ヶ月は欲しいとこで」
 牧本はそこで一度言葉を切った。少し早口すぎたかもしれない。大丈夫だろうか。上目がちに空閑の様子を伺う。
 空閑は聞いてくれていた。小さな頷きに背を押されるようにして牧本は言葉を付け加える。
「その、どうしても人手で育てなきゃ、っていう話なら。出過ぎたこと言ってすみません。ですが」
「いや。ありがたいよ、教えてくれて助かる」
 思いがけず、空閑はやんわりと笑った。
「細かい事情はちょっと込み入った話なんであまり言えないんだけどね。その、……犬のことはよくわからなかったものだから」
 動物の話を聞き流さない相手だったことで、牧本にもほんのりと落ち着きが生まれていた。だから、さらに少しだけ踏み込んで言葉を紡ぐことができる。
 今も空閑の傍らに置かれている大判本に視線をやる。書店カバーで表紙こそ見えないけれど、本の小口から伺える紙にはカラープリントページが多い。
「もしかして、さっき読んでたご本も?」
「ん。そう、駅前で探してみたんだけど。残念ながら、知りたい部分とは違う話が多くてね」
 それでも一応読み切ろうと思っていたのだけど、と空閑は肩をすくめた。口を一直線に引いた、いかにも残念そうな素振りに真剣みがあった。
 だから、牧本の口からその言葉はすんなりと出てきた。
「……たしか家にもいい飼育書あった筈なんで。ご興味あったらお貸ししますけど。どでしょ」
 空閑はおお、と声を上げて、身を乗り出す。
 そのはずみに彼の手元でオセロの駒山が崩れ、思わず二人とも笑った。
「お願いしてもいいかな。実はこういうのを読むのは初めてで、良し悪しも分からないのでね」
「んじゃ明日にでも。ご相談乗れると思うんで、なんかあったら聞いてください」
「手間をかけるね。ありがとう、牧村! 本当に助かる」
 安堵の気配が濃い表情に、牧本も悪い気持ちはしなかったのだけれど。
「いえ。それと……」
 さすがにこればかりは言わねばならなかった。
 緊張が失せて柔らかくなった口元で告げる。
「牧本。です」
 ごめん、今度こそきちんと覚えておくよ。
 空閑が大きく苦笑して、つられて牧本も笑った。
 これまで話すのに緊張もあったけれど、意外と付き合いやすい人なのかもしれない。それならばありがたいことだった。この場所の居心地の良さが、きっとこれからも変わらないだろうから。
 牧本はそう思い、ゲームを再開すべくコマを手に取った。手は決めていた。外側から囲んで攻める。
 なお。その後の空閑の打ち手は、思いがけず牧本の先手を取り続けた。中央の空隙から飛び込んだ黒が大きく牧本の陣地を食い破って反転させ、絡みつくような手が白の伸びを刈り取った。それはまるで、牧本の打ち手を全て先読みしているかのような打ちざまで、いっそ狩りという言葉が相応しかった。
 帰結として。牧本は空閑に大敗した。
 感想戦が終盤に入った頃に高校生組がぞろぞろと入ってきたので、オセロはそこで終了となった。
 そうして牧本はなじみ深い騒がしい日常に呑み込まれてゆき、彼女の記憶の中でこの日は何でもない金曜日の放課後として整理され、全てが終わった後も、特に思い出されることはなかった。



 週末の夜の喧騒は、それでも裏路地からは幻のように遠かった。
 だから、その水音は悲鳴めいた鋭さをもってアスファルトにこぼれ落ち、しゃがんだままとうとう立ち上がれなかった少年の足元を汚物で染める。喉奥から響く、胸が悪くようなえずきは果てず、堪え切れず壁に手をついても、なお臓腑を下方から叩き上げるような嘔吐の衝動が何度も彼――あいづちの肩を揺らした。
「あいづち!大丈夫か」
 大、丈夫。
 問いかけを鸚鵡返すような気を張った応えこそ返ってきたものの、彼の姿態が言葉の意味をあらゆる形で裏切っていた。ようやく喉からまろび出たとでも言うべき声の無力さ、初夏の熱のせいではない脂汗、ひきつって鳥肌だった頬、全て、すべて。 
 少しでも楽になれば、と空閑――人狼もくばは、へたり込んだあいづちの背をさすりあげてやる。やがて、先ほどよりは小規模な水音の連続が路上にこぼれ、酸のある臭いが鼻をついた。
 それでももくばはただ、安堵させるようにあいづちの背をさすった。
 人の手であれば、梅ノ木の背は痩躯ぎみではあれ、健康な若い男子の肉体として知覚されたのだけれど。
 狼の手から感じるあいづちの背中は、肉づきが薄く、幼い背骨の輪郭が痛々しく際立っていて、その感覚は空閑――もくばの中でも、特に狼である部分を酷く苛んだ。あいづちに顔が見えなくてよかったと思う。今の自分の表情は、きっと彼を動揺させるだろうから。
「ほら、水」
 荷物を探り、開栓したペットボトルを手渡した。あいづちは顔を上げることもなく無言で受け取る。附着した吐瀉物を流し、口をすすぐ水音が嗚咽に似て悲しかった。肌理の荒いアスファルトの上、汚水が幾筋にも枝分かれして流れていた。
 あいづちを伴って幾度めかになる狩りと食事の夜は、今夜もその最も切実な目的を果たすことはなかった。
 餓えたあいづちが人の肉を受け入れられないことが分かってから経過した夜の数を、木馬はそらで数えることができる。その夜の中で試した上を癒すためのあらゆる試行についても。
 牧本に借りた本は読んだ。 ヤギの乳とやらも探してみた。まじないめいた気持ちで、参考に出来ることは何でも試した。
 全ては徒労に終わった。
 ヤギの乳に狼の餓えを鎮めることは出来ず、仔犬の離乳食を参考にした幾つかの工夫も、あいづちの口から苦痛とともに全てが吐き出され、彼の腹を正しく満たすことはなく、この夜の食事もまた、見慣れた帰結へと墜ちていった。今ここに数え上げきれない、これまでの試行と同様に。
 うずくまったままのあいづちが低く唸るように毒づき、
「……もう全っ然わかんねえよ、」
 自棄な声は、寄る辺なく薄氷に立つ獣の悲鳴としてもくばの耳に届いた。
 溺れゆく者に似たその声が、冷やかな直感をもくばに与えた。あいづちは、もしかするともう、あまりもたないかもしれない。
 ひたひたと夜のぬるんだ風が肌の上を流れて行った。
 何故彼は人の肉を受け付けないのか。
 狼としての姿はある、それはあまりに幼すぎるもののようで、初めて見たときには驚いたのだけれど。
 人の肉を求める飢餓もある。狼の性として、人肉の匂いに惹かれるのも確かに見た。
 何が足りない。何が彼を狼たらしめることを許さないのか。
 あいづちはぐったりと背を壁にもたせ掛けたまま顔を伏せ、体力を消耗しているのだろう、動く気配をみせなかった。その姿を見るに耐えず、伏せたもくばの視線の先で、アスファルトに汚水が網の目じみて広がっていた。
(生まれたばっかの犬は――)
 不意に、いつかの昼間の会話が脳裏に浮かんだ。
 牧本は言っていなかったか。
 幼いものが、犬として犬になるための道のりを。
 犬が狼を祖とする生き物ならば。
 そして、梅ノ木と空閑の中にある、どうしようもなく「そう」である部分、それもまた狼の名を持つのならば。
「もくば……?」
 あいづちが心細げに鳴くのが聞こえ、もくばの意識は路地裏に立ち戻った。こちらを見上げる少年は、ひとにも狼にも成りきらぬ幼獣の顔をして、脆さを押し隠すこともなく、世界からのたった一人のはぐれ者のように肩をすぼめていた。
 もくばにはあいづちの怯えが手に取るように読み取れる。ここまで無防備に彼が内面をさらけ出す程、どうやら自分は彼の内面に踏み込んでいたらしい。その実感が、こんな状況であっても薄い苦笑となって口元を緩めさせた。あいづちが身をこわばらせた気配も伝わって来たけれど、それでも堪えることが出来なかった。
(僕は……僕たちは、狼なんだよ、あいづち)
 あいづちは――彼は、やはりまだ狼というものを理解していない。
 狼とは群れの生き物である。そして、一匹狼とは、己の属するべき群れを探している存在なのだ。あらゆる一匹狼というものが。
 だから、自分が彼を見捨てることなんて、あるわけがないのに。
(僕らはきっと、狼として正しく自分たちの色を定めなくてはならない)
 人間たちの中に隠れ棲む、人とも狼ともつかぬものではなく。
 狼に。ありのままの姿にならねばならない。
 昼に潜み夜に闊歩し、人を食らうものとして。
 そのための舞台ならある。作れる。誰にとっての幸運か、誂えたような機会がすぐそこにあるのだ。
 伝えるべき最後の言葉を発する決断は、すでに叶っていた。
「……あいづち」
 声の響きに何かを感じたのかもしれない。あいづちが気圧されたように、伏せ目がちにこちらを見た。昼ならば夜を集めたような黒瞳は、もくばの狼の目には、今は薄赤く輝いて見えた。
 その瞳に映りこんだものを見るまでもなく、もくばはいつになく酷薄に笑っている自分を自覚していた。
「こういうゲームはどうだろう――」
 さあ、賽を投げよう。川を渡ろう。背後の全ての橋を焼き落として。
 最後の枷を食い千切って。
 そして、往くのだ。狼の道を。君と。



<END>



初出:9/26/2014 


作中に、もちのじさん作「空碧いままで」へのオマージュを含みます。
執筆中BGM:「Let it Go」古文訳詞ver.
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2014 @huhgi