八番目のマーレボルジェ

 夏野蜻蛉にとって、夜は年長の女性の姿をしている。
 秋の夜が更け、世界が虫の音に沈む頃になると、夏野は二階テラスの近くの桜の枝に佇むようになる。生前の彼も身軽な体をしていたが、彼岸の住人となった今は猶更であった。
 少年が見守る中で、邸宅の明かりは次第に消えてゆく。虫の音は深くなる。
 やがて、彼が待ち望んでいた気配が訪れる。
 その部屋の扉が開き、そして閉まる。
 そうすれば、いずれ窓が開かれて、テラスに彼女が現れる。時そこに至って、夏野は宿る桜の枝から身を乗り出すようにして、彼女の姿を目に収めるのだった。
 ゆたかな黒髪を無防備に夜気に晒し、白い夜着に羽織物を肩に掛けただけ、彼女はそんな姿で現れるのが普通だった。季節によって夜着の上にまとうものは変化していたけれど、それは些細な差異だった。
 彼女はまず、テラスに出て辺りを少し眺め渡す。(この癖は後にほとんど見られなくなった。邸宅の中、寝付いていない部屋がないか確かめる必要がなくなったので。)
 そして、気を使うべき要素を見出さなければ、夜着の裾を折りながらかがんで、テラスの片隅に置いた蚊取り線香に火をつける。丁寧な手つきでマッチを擦って、薄闇の中に火を灯す。風に吹き消されないよう、頼りない火を逆手で守りながら線香に火を移すのだった。
 その様子を、穏やかな気持ちに満たされたまま、夏野はずっと桜の枝から見下ろしている。だが、彼はそれでも彼女に声を掛けない。それが暗黙の了解、二人の遊びのルールだった。
「夏野さん」
 やがて、彼女が呼びかけるその時まで、夏野はそこにいないことになっているのだ。
 呼ばれたならば、夏野は桜の枝から滑り降り、テラスの手すりの上に着地する。そこに腰かけて話す限り、彼女と夏野の視線の交わり方は、いつかのあの日と同じだったので。
「こんばんは、槙本サン。その恰好、寒くないの」
 さも通りがかっただけのように話しかけるのも、またルールの一つで。とうの昔に失われた時間のままごとのような、それは遊びだった。
 そろそろ夜も冷えるよね、とうそぶく夏野の姿は高校二年生のあの夏から変わらない。
 ゆるく首を傾けた彼女は、巡っただけの時を正しく重ねていた。手足は伸び、頬の輪郭は幼さを脱ぎ捨て、肉付きはやわらかに、二十数年の時を経た姿としてあるべきさまを表している。
「そんなに薄物に見えますか」
 その年月は、彼女の口調にも表れていた。独特の癖のあった言葉は耳に快いように緩やかに流れる。
 うん、寒そう、と夏野はうなずいて、膝の上に肘をついた。背中が丸くなりますよ、という言葉にも耳を貸さず、
「風邪ひいても知らないよ。もう大人でしょ。体のことは自分で気遣ってよね」
「この程度の夜冷えでは貰ったりしませんよ。大人だからそれくらいのことは分かります」
 夏野から数歩分だけ離れた距離、柵に両手を置くようにした牧本を夏野は横目で眺めた。牧本の宥めるような口調が、かえって気に入らぬような顔をしていた。
「ふうん」
 ふとその目が、喉を撫でられた猫のように細められる。
 夏野は柵に手をついて、少年のか細さを残した上半身を持ち上げた。その勢いで、投げ出していた足を引き上げるようにして柵の上に胡坐をかき、牧本に向き直った。
「――じゃあさ。大人の視点では、今朝来た学生さんはどうなの。大学院生なんだっけ?」
「いい人でしたよ。明日発つみたいですけど、またこちらに来る用事があるそうで」
 夏野は、へえ、と気のない返事をして、何事かを考えたようだった。けれどすぐに、屋敷の外をうろつく動物の話だの、季節の植物の話だのをいつもの調子で始めたので、客人の話はすぐに夜の中に紛れていき、牧本も夏野も、それきり蒸し返すことはなかった。

 翌日、夏野はふと姿を消して。
 少し笑みを深くして屋敷の周りに帰ってきた。
 牧本はそれを窓越しに見た。
 訃報が届くまで、さして時間はかからなかった。
 夏野は、笑っていた。
 牧本は、笑わなかった。


 その秋からなお時は巡る。
 女は年を重ね、
 少年の笑みは質をたがえ、
 破綻はゆっくりと育ってゆく。


 火は、緩やかに屋敷を舐めていた。
 「魔女」という噂が屋敷にも届くまでになった時点で、いつかこういうことがあるかもしれないという予測は立てていた。だから、初期対応としては問題はなかったのだ。あらかじめ準備しておいた手筈に則<のっと>って全てが進み、この屋敷で死んだ者が少しだけ増え、そして彼女は被害者として、何一つ傷つくことなく立ち去ることが出来るはずだった。
 それなのに、たった一つ、計算違いがあった。
「なんであの子まだ残ってんだよ……ッ」
 踏み出した足が重い、それでもとにかく動かす、急ぐ。縋り付く重みを振り払う。
 ずっと、もうずっと続いていることだ。
 この屋敷まで彼女を追いかけてきた後、それから。
 腹立たしく見下ろした足先には、どす黒い人の腕がいくつも絡みついていた。大人の、子どもの、老人の、若者の無数の腕、びよびよと、人の世に知られぬ這虫のように蠢く指ゆびが、夏野の足元にはあった。異形の炎めいて揺れるそれらは、掴むものを求めてしきりに空間を掻き毟っていた。その多くはただ空を裂くにとどまるのだが、ときたま夏野の足を探り当て、そこにまとわりつくものもある。
 今まさに自分の右膝にとりつこうとした老人の腕を、夏野は無造作に足で払いのけた上で踏みにじった。硬質のゴムめいた感触が伝わろうが、彼が今更ためらうはずもなかった。赤いスニーカーの底で乱暴にすりつぶされた腕は、とぷんと粘度高く溶けるようにしてその輪郭を失う。粘液はたちまち他の腕についばまれ、それがそうであったことさえ忽然と失せて行った。その全てを見届けもせず、夏野は歩を進める。
 追いすがる腕の群れを見る瞳からは、温度が削ぎ落とされていた。夏野はうっそりと笑う。
「君たちの呪詛は無力だ。君たちは、生きていても死んでいても、私を終わらせるには値しない、今ここで、私が望むようにすることも、君たちじゃ止められない」
 その笑みの形は嘲りの形をしていた。
 かつての陽気を枯らしたような面持ちで、怨嗟にまみれた死霊の腕を踏み、夏野は歩いてゆく。
 扉を幾つかやり過ごす。階段。月光もない夜の踊り場。また死霊を踏み潰す。今度は子供の手をしていた、まだ中学生のような。
 死霊を砕きながら、その荒々しさを微塵も感じさせぬ声で夏野は呟く。
「ねえ、牧本サン。こんな生活も疲れたよね、もう終わるから」
 次こそ、もっと安穏とした場所を。誰も来ない、誰にも乱されない、平和で静かな場所を。
 彼女が生きていくにふさわしい場所を。
 それを想う時ばかりは、柔らかな甘さが空虚な胸を満たした。その甘美があるからこそ、今も歩くことが出来た。
(ああでも)
 また一つ、死霊を砕く。若い男の手。踏んでなお動くそれを、かかとですりつぶす。
(私はもう、ついてはいけないかもしれないな)
 予感に伴って、ふといつかの"夜"が脳裏に思い出された。生前の記憶は、近頃では思い出せなくなりつつあったのに。
 狼、霊能者、村人、そして狩人。十二人いた。その中に、己も、彼女もいた。
 三人を殺し、二人が死に、そして夏野が三人目になった。その次で、"ゲーム"は終わった。
 その帰結として、夏野は彼岸に佇み、彼女は今も此岸にいる。
 夏野に与えられた"狩人"のカードは"ゲーム"が終わった後も確かに持っていた筈なのに、いつの間にかなくしてしまっていた。それは、今となっては数少ない彼女と夏野を結ぶ絆だったから、気付いた時には強い喪失感があったのだけれど。
 ――あの時は誰も守れなかった。
「今度こそーーいや、」 
 胸にふと湧いた甘い感傷を、夏野は目を伏せることで摘み取った。その願いはふさわしくない。
 目を開き、決然として階上を見上げる。そこにある彼女の部屋の扉は薄く開き、薄く光がこぼれている。
「……だけど、だから、君はそのまま行ってよ、ね」
 足元の死霊が、怖じるようにひと時その身を凍らせた。


 階段を昇る。彼女は何をぐずぐずしているのだろう、荷物も全て整っている筈だというのに。彼女には早くここから逃げて貰わなければいけないのに。
 湧き上がる火影のような怨嗟を随伴し、夏野は階段を昇り切った。
 階下で柱時計が鳴る、午前三時、さよならの時間。
 それは、煙と炎で全てが浄められるまでの地獄篇。



<END>



初出:8/9/2014 http://www.twitlonger.com/show/n_1s3a0oq
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