プルガトーリオ

               ――"火を通るようにして救われるべし。"


 屋敷に火が回るのを、女はテラスに佇んだまま見下ろしていた。大気には煤が混じり、焼けた建材の臭いが既にここまで漂ってきていた。
 彼女は二十代も半ばを過ぎていたが、装いは質素で、冬の立木のような佇まいをしていた。その体で唯一彩られているのは、うすく紅をさしたような赤唇のみで、凍り付いたような横顔を、背の半ばまで届くような長い黒髪が縁取っていた。
「牧本サン」
 聞き慣れた”気配"に、彼女はゆっくりと室内を振り返った。それはもう彼女を示す名としては失われたものだったけれど、彼は頑としてそれを使い続けていた。彼女の周りにある全てを受け入れまいとするように。だから、彼女は今も、彼の前では牧本だった。
 今は彼女のものとなった書斎の床を覆う絨毯、その長い毛足を沈ませることもなく、白い生地にひとひらの陰影も落とすことなく、白いカッターシャツの少年が立っていた。猫っ毛の髪はもはや風にも揺れず、顔は青ざめて石のようだった。遠いあの日から、その姿は変わることがない。死霊は年を取らない。
 夏野さん、と口の中で彼の名前を呼ぶ。
「ここにももうすぐ火が回る。裏口はまだ逃げられると思う、君はそこから抜けて行って」
 彼は厳しい眼差しで階段部に向かう扉を示した。
「夏野さんは」
「……私は、まあ幽霊だからね。人間と一緒に考えて貰っちゃ困るなァ。それよりも早くしないと君が、」
「嘘」
 牧本はくすりと笑った。
「何がさ」
 不興げに夏野が眉を寄せた。
 焦りを見せない牧本の様子に、いらだちが募っているのが見て取れた。
「だって夏野さん」
 テラスから数歩を踏み込む。
 夏野が神経質に腕を組む様子にも心を動かされることもなく、牧本は告げた。
「貴方もう、この建物から動けない、でしょう。ここでは。人が死に過ぎたもの。私と貴方のせいで」
 夏野の目が細められた。
 それを確認して、彼女は薄く笑う。
 それがいつから始まって、いつ終わったのか、実は牧本はよく覚えていない。年を数えることは、ずっと昔に止めてしまったので。歩きざまに、牧本は書斎の机に放り出されたままのチェス盤、その上に立つ駒を指ではじいていく。
 白いビショップがテーブルに転がり――教授の伯母は、石階段から落ちて頭を打ち、そのまま入院先で亡くなった。
 黒いナイトが硬い音を立てて盤面を転がり――教授の甥だという男は、車のブレーキを踏み損ねて冬の川に落ちて亡くなった。
 白いポーンは床に跳ねてどこかに消え――教授の弟子だった男性は、帰路の駅で電車に飛び込んだ。
 黒いキングは足元でその小さな細工を欠落させ――教授は勤め先で脳溢血を起こして亡くなった。
 この屋敷を中心とした災いは、死に至らぬものまで含めれば、この遊戯盤に納まりきるものではなかったのだけれど。それだけ多くの災いが、庇護としてばらまかれた。倒れていく白黒のチェスの駒を表情のない眼差しで見下ろす、この常若の少年の手で。
 初めてこの死者と――夏野と再会した時のことを思い出す。
 あの時もこのテラスだった。夏野は何でもないように立ち現れた、幻だと振り払おうとすれば、窓の外で道化ぶった振る舞いを始めるものだからいつの間にか受け入れていた、気が付けば、夜にこのテラスで密会するのが習慣になっていた。あらゆるものを捨てると決めていたから、ここで植物のように名残りの命を費やしていく筈だったのに、その頃からまた、牧本は人間に戻ってしまった。
 それがいけなかったのだ。
 ――夏野の顔に浮かぶ笑みの種類が変わったのは、いつからだったろうか。
 彼女の追憶は一瞬で、その過去の膨大ゆえに、告げるべき言葉は簡単に紡ぎ出すことが出来た。
「だから終わりにしませんか、炎の中で。私たちにはそれが似合いです」
 室内に、ゆるりと煙の気配が立ち入っていた。構わず、牧本は絨毯を踏む。踵を埋めるようにしながら、年月に侵されぬ、かつては自分よりも年長だった少年の頬に指を伸ばした。 
「あのね、夏野サン」
 そこに存在していると確かに思うことが出来るのに、指先が辿り当てるのは、わずかに冷えた大気の空虚さだけだった。あるいはこの時に至るまでの全ての彼の記憶が幻覚なのではないかと思わせる、それは幽世の虚無だった。
「もう。先にいかなくていい。です。私も、先にいかない。から」
 夏野の、死者の顔が歪むのを、牧本は確かに見た。
 堪え切れぬように死霊の手が生者の腕を辿る。それも彼女の手に圧がかかることはなく、筋がしびれたような冷気だけが、執着を示す様に絡みついた。
 しみいるような冷たさが、いつの間にか全身を抱いていた。
 牧本は目を閉じる。
「夏野サン、」
 一緒に。終わろ。
 少女時代の声に、古い時代からのこだまが確かに応えたのを牧本は聴いた。
 それが、全てが混濁に沈む前の、最期の記憶となった。
 おそらくは、苦しまなかったはずである。


 その日、世間で魔女と噂された女とともに屋敷は全て焼け落ちて、過日の栄華を、家人を襲った奇禍の記憶を、冬の森の中に葬り去った。災いとされた全ては炎によって贖<あがな>われ、ただ白々と朝の光に、廃墟が佇むのみであった。最後の住人にも縁者はなく、かつては学者の名門であった旧家の邸宅跡は、諸般の手続きが滞りなく進んでいくうちに、やがて人々の記憶からも消えていくことになる。
 全てが焼け落ちたその明け方、見知らぬ黒髪の少年が廃墟に目を伏せる姿を見たものもあったと聞くが、いずれ定かならぬ噂である。



<END>



初出:8/7/2014 http://www.twitlonger.com/show/n_1s32rvg
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