その父母の名を


 年も明けて間もなく、僕は研究室時代の友人からおよそ十五年ぶりの呼び出しを受けて、大学近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいる。時間の感覚というものを母の腹に忘れてきたらしい友人は、恐らく今回も少し遅れるようだ。久し振りの再会というのに、彼は変わらないと言えば、学生時代に少し背伸びをしたような気分で入り浸ったこの店もそうだ。しわがれた猿のようなマスターの顔も、彼が手入れするサイフォン式のコーヒーメーカーの様子も変わりない。いや、マスターの髪は往時よりもだいぶ白くなったろうか。それと分からずとも、歳月は誰の上にも等しく降る。
 おつまみのピーナッツの袋が半ばまで空いたところで、友人が来た。学生時代から変わらない眼鏡と変わらないシャツを着ていたが、顔には年相応のたゆみや柔らかな皺があって、何となくほっとする。
「やあ」
 友人は、講義でたまたま隣り合わせたような口調で向かいに座ると、コーヒーを注文した。久し振り、元気そうだね、と声を掛けると、友人は自分に欠けた語彙を発見したような顔をした。
「ああ、久しぶり」
「急だったから驚いたよ。どうしたんだい」
 友人は給仕されたコーヒーを一口飲むと、指を組み替えた。
「実は、タイムマシンが完成してね。君に教えようと思ったんだ」
「学生時代からの君の計画か」
 僕はさほど驚かなかった。近年の物理学の発展と、友人の学才は僕自身よく知るところだった。
 僕たちは理論物理学を専攻していた。僕と違い友人は俊才で、自分の専門分野に深い理解をする一方で、生物学や化学分野にまで気軽な逍遥を行ってなお学問の探求に飽きず、大学に自分の研究室を構えるまでになった。彼は気難しいところがあったし、僕は人と関わることに鈍いところがあったのだけれど、それでも学生時代は奇妙に馬が合った。しばしばたわいもなく突拍子もないような話を延々と続け、コーヒーと煙草を消費した。互いがそれぞれ進路を分かつまで。
 彼が弔事でしばらく大学を休んだ後のことだったと思う。タイムマシンを作りたい、そんな夢想めいた呟きをして火のついた煙草を持つ彼の横顔を、僕は何となく覚えている。当時の僕がそれに何と応じたかは覚えていない。
 その記憶の中の顔から幾分年を重ねた友人は、うん、と答えてコーヒーを匙で掻きまわす。
「今度、試してみると思う」
「大丈夫なのかい」
「段階的な実験には成功しているよ」
「世の中にはまだレビューも出ていないんじゃないか。僕に言ってもいいの」
「大したことじゃないサ」
 友人は肩をすくめた。まるで世間話のようだった。
 それからしばらく僕達は思い出話と互いの話を続けた。昔の僕たちからしてみれば、随分と順当に話をするようになったものだ、と少し可笑しかったが、僕はそれを口にすることはなかった。
 帰り際、なぜ僕を呼び出そうかと思ったのか、と友人に尋ねてみた。
 友人は、彼らしくもなくぼんやりと思索した。
 僅かな沈黙。
「……何故だか、君に会いたかったんだ」
 それが恐らくは、彼の行動の全てだったのだろうと、今は思う。


 
 結論から言う。友人は、戻ってこなかった。
 彼の研究室には作動を終えたタイムマシンだけが残されていた。彼の研究データはどうやら彼の手ですべて破棄され、復元することも出来なかったという。学生も研究者もいない真夜中に、一人で機械を動作させたのだろう、そんな話を聞いた。
 過負荷による発火か、操作盤は焼け付き、あらかたの者を片付けられた室内には、今も薄く鼻を刺すような異様な臭気が残っていた。装置の中で、かろうじて焼け残っていたインジケーターだけが、彼の行き先を教えてくれた。
 遡航先の時代を示す相対時間軸の数字は六桁。
 行き先の座標は10°17'13.9"N 40°31'47.8"E――
 僕は、別れ際の彼の言葉を思い出す。
 そして、合点した。
 彼は、きっと、会いたかったのだ。



 ヘルト・ボウリの草原に、直立する君と君の古い父母たちが佇んでいる。、後頭が強く屈曲した輪郭を持つ遠い父母たち<イダルトゥ>は、日の光の中で思い思いに過ごしている。君にいつか約31億対の塩基を贈るはずの、眉間の張り出した彫り深の顔の一つが、ふと欠伸をする。
 アワッシュ川の水面が君の目に優しくきらめき、そして、流れてゆく。君が待つ未来の果てまで。


<END>



初出: 2016/01/11 #新年のお字描き一週間一本勝負




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