雨夜にて


1.

 雨が降っている。
 春先のぬるく湿った空気は、妙に粘つくようで、イルマイゼットには幾分心地が悪かった。
 毛布にくるまりなおし、寝返りを打つ。顔に落ちてきた髪を掻き揚げる、足が毛布の中を泳ぐ、いずれもどこか湿った感触である。
 表通りの、緩みかけた石畳を叩く硬質な音が連なって、屋根からしたたる静かなリズムは乱拍子。
 そういう音は、嫌いではなかった。こんな雨の夜は、足音もなく過去を連れて来る。 長命なエルフの一派、フィス<森の民>の子としては彼女はまだ若かったが、思いを馳せるだけの過去が彼女の肉体を満たしていた。悲嘆も歓喜もひと紡ぎに、これだけの記憶があるとしたら、この先どれだけの出来事がこの身に降り積もってゆくのだろう。
 他人事めいた思いを余所に、雨音の声にまぎれて無数の過去が囁き始める。
 それは、この黄砂色の髪をしたファイーサ<森の娘>がまだ幼い少女だった頃、鼻持ちのならない小娘だった時分、東西の国々を渡り歩き、人々と出会い別れ、今の住まいへ流れ着くまでの日々であったりした。


 彼女の故郷は白い花の咲く森、<森の魂>の気配深い古い森である。
 <血の枝に連なるもの>は少なかったが、それよりもイスライセ<業家属>は多かった。彼女がイスラ<業家>に振り分けられたのはごく早く、他の子ども達がク=イオニス・イスキン<色なし仔鹿>であるような時分に、イーグ<蛇>の娘として、薬草を植え育て、血と肉の理を学んでいた。イーグ<蛇>では、そのイスラ<業家>としての性質から、イルマイゼットのように幼いイスライセ<業家属>は、彼女を除いて一人しかおらず、年かさの者が多い師兄姉たちには厳しいなりにも可愛がられていたと思う。今は面影も朧なスルクーサ<同輩>の少女とも、よく薬種となる野生の草々を摘みに行った。

 郷里が滅んだ後、彼女と後の彼女の師となる青年は、あてどない旅暮らしを強いられた。
 師であり、人の世界でいう養父であったその青年は、閉鎖的な村社会を築くフィス<森の子>の一族としては世知長けており、郷里の外にも詳しかったが、かといってそれによって不自由のない暮らしを手に入れられるほどではなかった。また、時代もそれを許す豊かさを持ってはいなかった。
 長命と美貌を持つエルフの一派、ファイムベイル=フィス<尖り耳の森の子>として、尖り耳と薄く裂いたような眼差しは、人間の社会においては異貌である。エルフと交わった国々であれば、彼女たちもその中に埋没したが、そうではない地域では些細なことにも苦労をした。幼いイルマイゼットは、訪れた村の子どもたちに石を投げられたこともあったし、時にはいわれのない罵倒を浴びせられることもあった。今思えば、子どもであった彼女ですら、あれほどに辛かったのだ。養父であった彼の肩には、どれほどの苦労が降り積もっていたのだろう。


 そう、特にあの頃は、稀に見るナヴ=フィヨウ<冷たい夏>が訪れ、作物は実らず、獣は仔を産まず、人々は細るばかりだった。
 冷たい空気と降りしきる雨の音、毛布を引き重ねた褥の中で、イルマイゼットの瞳は閉じられて、すでに遥かな過去を辿る。
 ひととき、ぬくもりは忘れられ、今ではない雨の音が耳朶を打った。


「寒いだろうが、もうすこし我慢しろ」
 降りしきる冬の雨の中。景色は灰色で、くるみこまれた父の外套の中は、旅にくたびれ果て、垢が染みていたが、何より暖かく、それ以上のことは気に留めもしなかった。そんな余裕も無かった。
 父は痩せていた。少女のイルマイゼットと同様に。だが、かつて森に暮らしていた頃、彼はもっとたくましい体躯の男だったことを、イルマイゼットは覚えている。年端も行かぬイルマイゼットを抱えた長旅と慣れぬ暮らしは、強健で意志の強かった父にも辛い日々だったのだ。殆ど具のない薄い粥をすすり、食べられるものと知れば口に入れていた日々、イルマイゼット自身、よく永らえることが出来たと思う。あれは、父がいつも食べ物を彼女に与えていてくれたお陰だ。だからこそ父はあれほどに細り、幼い少女が生き延びた。


 毛布を引き寄せる。
 握りこんだ毛布は羊毛のざらざらと粗い手触りを還すばかりだが、いつしか体温を吸い込んで手をぬくめた。


 艱難の旅路は二年で終幕した。
 ナヴ=フィヨウ<冷たい夏>は終わり、実りが蘇りつつあった頃。南から北上してきた旅芸人の一座と、たまさか行き会い、休息地を分け合ったことがあった。その時、偶然大怪我をした一座の長の息子を、父が救ったことが二人の旅の行方を変えた。薬師のいなかったその一座に、二人は迎え入れられた。肌の色の濃い彼らの中に合って、北方の色白い二人は奇妙に浮き上がって見えたろうが、二年、三年と同じ道行きを歩むにしたがって、彼らはずっと昔からそこにいたように一座に馴染んだ。
 妙に白粉臭く、唇を朱に塗った女達は、きゃらきゃらと笑いながらイルマイゼットの髪を梳いてくれ、何くれと身の回りの仕事を教えてくれた。イルマイゼットの肉体が子どもから娘に成熟した時、知識を持っていても戸惑うことの多かった彼女に、軽口を叩きながらも世話を焼いてくれたのも彼女達だった。父と二人の旅路では、こうも滑らかにはいかなかったろう。
 イルマイゼットは父から薬草の術を学び続け、父もそれを望んだ。彼女は、<蛇>の記憶を、<蛇>に連なる記憶を忘れたくはなかった。薬草の調合、医療のわざを学び続けることで、それをずっと抱えていられるような気がしていた。
 そうして、一座の薬草師は二人となった。


 雨音は止まない。石畳を強く打つ。
 薄く開いた赤瞳、いつしか眉に力がこもっている。
 あの頃は暖かかった。ここにずっといられるのだと思った。
 だが、約束されているものなど何もない。


 次の転機は、彼女の容姿が女として成熟した頃にあった。
 踊り娘や芸をする娘達とは違って、薬草師として一座にいた彼女は、彼らの興行に顔を出すことは無かったし、また父もそのように長と取り計らっていた。それを疎ましがる娘もいたが、その約定は、その時まで守られていた。
 しかし、ある街の興行で、イルマイゼットが興行天幕の裏で雑用をこなしていたのを、ある裕福な男が目に留めたのが不幸だった。それは、エルフという生き物の姿ゆえの不幸とも言えた。密やかに行われた座長と男の交渉は決して短くはなかったが、最終的に、娘の父との約束よりも銀貨の袋が重かった。座長にとっては、イルマイゼットとて一座の娘に代わりはなかったのかもしれない。
 娘の叫びを聞きつけた父とともにイルマイゼットは街の外へ逃れた。一座の者達との記憶、とりわけ女達との記憶は、もはや朧なクルティーサ<師姉>の記憶よりも暖かかったが、その夜の出来事は二人を一座から去らせるだけの衝撃を持っていた。最悪の事態には至らなかったとはいえ、信義が破られた以上、そこには留まれなかった。
 薬草師としての稼ぎを含め、身の回りのものを多少なりとて持ち出せたのは僥倖だったろう。



 それからのことは、それでも以前よりは遥かに暮らしやすく、安らいだ生活だった。
 しばらく流浪の旅が続いたが、ある都市に住処を得てからは、やがて薬草師として信頼を得るまでになった。そうして日々を暮らすうちに、父はやがて、密かに町の娘と思いを交わすようになった。イルマイゼットよりも若い彼女は、人好きのする気働きのある人間で、父と並び立つ姿に二人の情がにじみ出ているようだった。父はイルマイゼットを気にかけていたようだったが、薬草師としての見識を広めるためとして、イルマイゼットは父の元から旅立った。長い旅路を、父は彼女のために犠牲にしてきた。父は、父の幸いを掴むべきだと、彼女はそう考えていた。
 その頃の彼女は、すでに知識を増やし、まじないを知り、旅にも慣れていた。薬草師としてのみならず、冒険者としての道を歩む準備は、すでに整っていたのだ。
 そして、もう一つの旅が始まる。


 いくつもの街を行き過ぎてきた。
 西方の堅牢な都市、遥か砂漠を越えた東の異郷、南の草原の獣人の街。
 北へ歩みを寄せたこともあった。あの森へ歩みを進めるには長い時間がかかった。
 留まることも出来たが、彼女は再び人の街の雑踏を目指した。


 長い中には失意もあった。
 すれ違ったまま、二度と戻らなかったものもあった。
 憎しみを浴びせられたまま、とうとう手を結ぶことなく過ぎ去ったものがあった。
 だが、それだけではなかった。

 あの一座の長は、それでも優しかった。下らない冗句が好きで、品のない冗談も多く、あの頃のイルマイゼットは辟易していたが、それでも、疎ましくは思わなかった。
 時にいがみ合ったこともあった女達の手は、温かかった。言葉を突き刺してきた歌謡いの彼女でさえ。
 手当てした傷が快癒した時、大げさなほど礼を言った少年の顔は、今でも忘れがたい。
 差し出された助け、苦痛を撫でさする手、提供された温かい汁物の味、そして、そして。
 そういったひとびとのぬくもりの、やさしさの、やすらぎの、なんと多いことか。
 なんと多くのものが、奪われる以上に、己に与えられてきたものか。


 そんな暮らしを続けるうちに、ひょんなことからアドロードの一角に店を構えることが出来、それ以来、何となくこの街に居ついている。
 だが、相変わらず留まり続けることは出来ていない。
 商いは面白い、調薬の研究も止められはしない、だが、ふとした時に訪れる冒険の予感を手放すことも出来ない。
 ひょっとしたら、いずれアドロードを出る日とて来るのかもしれない。今はまだ、そんなことなど想像も出来ないが。


 きっと、己は水なのだ。留まれば淀み、隙あらば流れこぼれていく。どこかにずっと居続けることは出来ない。
 そういう性分で、そういう生まれなのだ。

 そうだ、そういうものなのだ。だが、そうなるまでは。
 吐息は、どこか笑みを含んでいた。眉からはすでに険が抜けている。
 毛布のぬくもりが快い。ようよう目を閉じれば、まどろみが柔らかく袂を覆いかけた。


 いつしか雨の音は耳から遠ざかっていた。
 明日の路面は歩きにくかろう。
 だが、明日昇る太陽は、それもやがて乾かしていくに違いない。
 人の足がかき回し、太陽の光の熱が差し込んで、水は風となり、やがて道も歩きやすくなるだろう。
 やがて、再び水が巡り、雨の降る時まで。



The END.



初出: 2008




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